左足から、一歩踏み出してみよう。

そんな簡単なことが、いつからかできない。

ぎこちなく持ち上げた左足には、灰色のセメントがこびりついているようで、私にはひどく重い。

無責任にも、彼は不思議そうな目で見つめてくる。好きなように歩けばいいじゃないか。どちらの足から歩き出そうとも、誰も何も気にしない。

私も、頭では分かっている。ただ、左足が重い。

 

彼との出会い

彼とは、秀美のことだ。秀美とは、山田詠美『ぼくは勉強ができない』の主人公だ。

夏休み、私は燻っていた。コロナ禍にあっても何かしなくてはならぬという謎の使命感に駆られ、あちこちの活動へ首を突っ込み、混沌の中に身を置いていた。地に足がついていないとは、こういう状態を言うのだろうと、今なら自信を持って提言できる。

アトレのTSUTAYAは、いかにも涼しげだった。ブルーライトに目をやられていた私は、活字を以て浄化せんと、文庫本コーナーに吸い寄せられた。そこで目についたのが、山田詠美のラベルである。

山田詠美は、高校二年生のときに読んだ『珠玉の短編』以来、私の脳裏に焼印のごとく記されて離れない作家だった。発展途上の当時17歳の私に、彼女の文章はあまりにも刺激的で、文字と文字との間には、妙な匂いが漂っているように感じられた。それは生臭いかと思えば、途端に甘美になる。皮肉に満ちた文言が、現実感と共に語られる。読了後は、心地よい胸焼けが引き起こされた。

一周回ってやさぐれていた私が、彼女の本を手に取ったのも、当然のことだったのかもしれない。

 

彼とのニアミス

人の本質は変わらない。ただ、それが発育と共に分かりにくくなるということは、この本を以て証明された。

というのは、私はこの本を読むのが初めてではなかったのだ!

正確には、番外編「眠れる分度器」の一部を、中学生の頃に試験勉強で読んだことがあったのだ。重複箇所に至るまで、私は全く気が付かなかった。よくもまぁこれだけ語っておいてと、呆れ返るほどである。

番外編では、小学生時代の秀美が描かれている。クラスという、微妙な均衡のもとに成り立つ、閉鎖的な空間。私事に関しては繊細だが、他人には残酷な児童たち。そしてそれを理解できない、部外者の話だ。

本編の秀美は、小学生の頃とは明らかに違う。しかし、一種の純粋さを、彼は失わずにいる。秀美は、経験に汚されるということが決してない。

それにも関わらず、私は彼を「高校生の秀美」「小学生の秀美」と区分し、その「成長」を評価したがった。繰り返すが、彼の本質は変わっていない。連続する彼の人生に、時間的な別称など必要ないのだ。私が「本編と番外編とでは主人公の年齢が違うから、同じ話だとは気付かなかった」と言ったとしても、それは自分の色眼鏡が曇りに曇っていたからに過ぎないのである。

 

彼との軋轢

気付けば私は、19年生きている。19年も?19年しか?

高校の後輩から見れば大人、先輩から見れば一年生、親から見れば子供、考えれば切りがない。では、私から見れば、私は何者なのだろう。

実は夏休みの出会いは、そんな思いに駆られるちょうど最中のことだった。

 

この19年自体は意外にも物語を含んでいて、その間に染み付いた習慣や常識、はたまた非常識は、なかなか無くなるものではない。冒頭の左足云々がいい例だ。

どんなに些細なことでも、私は自分に呪いをかけてしまっている。それを解こうと思えば思うほど、余計に絡みつく。

この感覚を分からない人もいるだろう。秀美はきっと分からない。

いや、分からないというか、理解はしていても、身体的実感を持つことはない。それが秀美の描かれた意義だと、私は思う。

 

年下になった秀美に、私が感じるのは、ただただ嫉妬である。

私はいつまで子供でいなければいけないのか。

若くいなければいけないのか。

そんな問題を自分に課すことの、なんと虚しいことか。

私は悔しい。自分の弱みを、あの本に握られてしまったのだ。

 

彼との和解

それなら、と顔を上げる。あの本に、弱みを封じ込めてしまえばいいじゃないか。そして不安になったら、また取り出せばいいじゃない。

彼との出会いは、きっと一夏の思い出。逆に言えば、ずるずると引きずるものではないのだ。今後再会したとしても、私はもう、今の私ではない。私たちの関係は日々変化し、私の弱みも、きっと姿を変えている。

 

意外にも結論は簡単で、重い荷物がすとんと落ちた。文庫本は、その分の重さを増して、私の手の中に収まっている。

このようにして、私たちは出会いと別れを繰り返し、いつしかまた一緒になる。そしてまた別れるならば、物語は続くのだろう。

 

(桃風とまと)