ロックを日本語で歌う――今では当たり前のことで、疑問を持つ人はないだろう。だが、1970年代初頭は、欧米からやってきたロックという新しい音楽に日本語の歌詞を付けることに、まだ抵抗のある時代だった。

「ロックは英語でやらなくちゃだめだという人が過半数だった」。そう語るのは作詞家・ミュージシャンの松本隆さん(69)。日本の音楽を大きく変えた人物の一人だ。

松本さんは東京・青山に生まれた。幼少期はクラシックを嗜んでいたが、慶應中等部に在籍していた頃、ビートルズがデビューしたことでその後の人生が大きく変わった。

きっかけは、友達が「すごい新人のバンドが出た」と言って「抱きしめたい」のシングル盤を学校に持ってきたことからだ。プレーヤーを持っていた英語教師に、授業中にかけてもらい、クラス皆で曲を聴いた。視聴後すぐに、「wannaというのはwant to の略」と英語の授業を始めたことは、自由な気風が漂う慶應ならではの光景だったと振り返る。

松本さんはその後ロックにのめり込んだ。1970年、慶大在学中にはっぴいえんどを、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂とともに組んだ。このバンドこそ、日本語ロックの基礎を作る存在となる。

当時の大学は、学生運動真っただ中。日吉の並木道はバリケードで校舎に入ることができず、新宿駅では催涙弾を浴びた。デモを静観しながら「政治は変えられないけど、音楽なら少しなら変えられる」と決心した。

日本語のロックを浸透させるために立ちはだかったのは人間の頭の固さだという。日本語でロックを歌うと笑われる。雑誌は論争と騒ぎ立て、当時のロック界のボス、内田裕也と対談したこともあった。弱冠20歳の松本さんにとって怖い体験だった。

日本の音楽に大きな影響を与えたはっぴいえんどは、わずか3年で解散する。

その後80年代、松本さんは松田聖子、薬師丸ひろ子、斉藤由貴、中山美穂などの多くのアイドル歌謡曲の詩を手掛ける。「男と女は正反対に思えるけど、元を正せば同じ人間。男は男らしくとかうそばっかり、女々しかったりする」。人間は皆平等という考えのもと、乙女心を細かく描写した松本さんの歌詞は人々の心に響き、曲は大ヒットを連発した。

松本さんは1980年代の終わりごろから90年代まで約10年間休養状態に入る。「アウトプットがすごすぎて、からっぽになった。このままいくと自滅する。松田聖子っていうのが宇宙戦艦ヤマトみたいな人だから、どうやって沈まなくてすむか、自分の中で命題だった」

そんな40代半ばの松本さんが出会ったのは、古典だった。2012年には、「古事記」を口語訳した新しい純邦楽を発表した。

「それも日本語ロックの変形だよね。純邦楽の人にとっては目から鱗だった」

松本さんが生み出した歌詞は今、世界へと広がっている。中南米の人やデンマーク人が、はっぴいえんどの代表曲「風をあつめて」を歌っている様子を動画サイトで見ると嬉しいと話す。「僕の唯一の人に誇れることは、日本語を日本語のまま輸出したこと。音楽に国境がないことを証明した」

松本さんは、歌詞に「風」という言葉を多用する。

「すごく大切なものって目に見えないものなんです。正義とか愛とか。加えて、目に見えないだけで動いている。とっても普遍的、国境も関係なく分け隔てなく気持ち良い風が吹いている。だから風に憧れた」

松本さんは日本の音楽の風向きをがらりと変えた。風はみるみる大きなものになっていき、世界全体へ広がった。風上から今度は何が生まれるのだろうか。

(山本啓太)