なんだか元気が出ない日がある。日常で生まれた不安は日常をただ繰り返していても薄れない。気分を変えようと家族や友人を誘って遠くに出かけたくても、そう簡単にできない日々が続く。そんな毎日に非日常を添える存在、それが銭湯である。今回、高円寺にある老舗銭湯小杉湯で今年5月まで番頭を勤めつつ、絵を通して銭湯の魅力を多くの人々に伝えている塩谷歩波さんに話を聞いた。

建築学科から銭湯の番頭に

塩谷さんは早稲田大学を卒業後、インテリアコーディネーターだった母の影響で建築家を目指し、設計事務所に就職する。しかし1年半で体調を崩し3ヶ月ほど休職。その間に久々に訪れた銭湯の気持ちよさや常連さんとの会話に癒され、銭湯の魅力を再発見する。

週に4日のペースで銭湯に通い、各銭湯の構造や特徴を細かく分析した銭湯図解をTwitterにアップした。それが小杉湯の番頭の目に入り、パンフレットの絵を描いたことをきっかけに、うちに就職しないか、と声がかかったそうだ。当初は銭湯に転職して成功するとは思えなかったが、未来なんて誰にもわからない、失敗しても後悔しないと感じたことから小杉湯への就職を決意した。

広告業にも興味があり、まちづくりに関心を持っていた塩谷さん。街に密着した小杉湯での仕事にやりがいを感じ、結果的に転職は成功に終わった。そんな小杉湯も今年5月に退職することに。現在は絵描きとして、また時にライターとして活動している。

高円寺の町の銭湯・小杉湯について

塩谷さんが勤めていた小杉湯は高円寺にある老舗の銭湯。塩谷さんの執筆した「銭湯図解」でも塩谷さんのホーム銭湯として紹介されている。塩谷さん曰く小杉湯は老舗銭湯という強さを軸に置いて、文化を大切にしながらも新しいことにチャレンジしている銭湯だという。

小杉湯名物は絹のような手触りと優しい香りが特徴のミルク風呂。そしてもう一つはサウナと水風呂の交互浴。水風呂は初心者には少々ハードルが高いように思われるが、むくみが取れたり自律神経の働きを高めたり身体に良い効果が多くあるそうだ。かくいう筆者も銭湯にはよく足を運ぶものの、未だ恐怖心が勝り水風呂には浸かったことがない。塩谷さんは足先や指先などから少しずつ体を慣らしていくことが大切だという。自分の身体と相談しながら、この夏、交互浴に挑戦してみるのも良いかもしれない。

塩谷さんの学生時代と学生へのメッセージ

己の経歴にとらわれず柔軟に生きる塩谷さん。大学時代は、所属していた建築学科が非常に忙しく、泊まり込みで作業をすることもあった。勉強には真面目に勤しみつつ、課題が忙しくない時は思い切り遊ぶなどして、充実した学生生活を送っていたそうだ。

学生が抱きがちな将来に対する漠然とした不安について、塩谷さんはこう語る。近年、「好きなものを見つけてそれに従事できる人が偉い」という風潮がある。もちろんそんな人生は好ましい。しかし自分の好きなものがわからず示された道を歩く人生も決して悪いものではないのである。人生どのように進むかわからない。まっすぐ歩くのも道を随時変えながら歩くのも、すべて肯定されるべき素敵な生き方なのだ。

取材前まで私は好きなことで生きる塩谷さんに羨望に近い気持ちすら抱いていたが、将来について優しく語る塩谷さんの表情は、これまでたくさん痛みや挫折を経験されたからこそのものだろう。自分の好きなものは、自分で見つけるだけではなく周りに聞いてみることも一つの方法だという。塩谷さん自身も、行き詰まっていた時に道を示してくれたのは彼女の友人の存在であった。

銭湯図解について

銭湯図解とは細部まで丁寧に描かれた俯瞰図のことで、ミニチュア感やリアルさがたまらないと人気を博し、書籍化もされている。かなり細かい作業で、始めは何十時間も要していたものの、今では約2時間で1枚分を着色まですべて描きあげている。絵を描き始めると自然と集中して何時間でも書き続けられてしまうため、意識的に休憩をとることに気をつけているそうだ。

コロナ禍の銭湯

銭湯は社会インフラに分類されるため緊急事態宣言下でも経営を続けられた。それでも、客足が4割減少するなど少なからず打撃を受けた。しかしそんな中でも足を運ぶ客層が常連さんであったことから、銭湯が担う日々のお風呂としての役割の責任を改めて感じ、原点に立ち帰るような思いがしたという。

銭湯に行きたい人へのアドバイス

銭湯へ行く際に持っていくことを薦めるものは、コンディショナー、クレンジング、ハンドタオル1枚、化粧水や乳液、ボディソープ。お風呂の縁に座る行為は他の人が入りづらくなるのでマナー違反だそうだ。桶や風呂椅子は持ってきたものを使い、洗って元に戻すのがベスト。もちろん場所取りをするのも他のお客さんの迷惑となるので慎もう。

小さな非日常を探しに

銭湯は一日のスイッチをオフにするのにちょうど良いと塩谷さんは語る。深い話はしらふではできないという人も多いだろうが、広い湯船に並んで座ると自然と素直な気持ちを話せるものだ。ただ、現在は感染対策のため浴場での会話は禁止されている銭湯も多い。早くまた気兼ねなくおしゃべりできる世界になって欲しいと切に思う。しかし、銭湯が気持ちも身体も安らげる場であることはいつの時代も変わらない。

宣言が発令され、先の見えない日常が続く今、日常の小さな非日常を探しに近所の銭湯に足を運んでみてはいかがだろうか。

(小島毬)