あなたは「伝」という漢字に何を想うだろうか。伝達、伝説、伝統…。来年7月に迎える塾生新聞創刊500号を記念して、「伝」をテーマに社会で活躍されている慶應義塾と所縁のある人物に焦点を当てていく。第2回は作家池井戸潤氏。小説で「伝」える上で軸になっているものとは何か…

【プロフィール】

1963年生まれ。慶應義塾大学卒。1998年に『果つる底なき』で第44回江戸川乱歩賞を受賞し、小説家デビューする。『鉄の骨』で第3回吉川英治文学新人賞受賞。2011年には『下町ロケット』で第145回直木賞を受賞。半沢直樹シリーズ『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』はドラマ化され、ブームを引き起こした。

 

痛快なエンターテイメントへ挑む

現在最も脚光を浴びている作家といえば、直木賞作家、池井戸潤氏。彼が生み出した「半沢直樹」の奮闘は、ドラマ化され、日本中の話題をさらった。しかし、この大ヒットについて「原作者の手柄では全くない。内面から描く小説と、真逆のアプローチをする映像は別の世界」。名だたる賞を受賞しても、自身の作品が社会現象を巻き起こしても、謙虚な姿勢を変えない。

慶大文学部及び法学部を卒業後、銀行に就職した。そこで得たことが、「企業を舞台に用いて人物を描く」という自分のオリジナリティを支えている。「経験全てが、作品のあちこちに顔を出している」。どんな経験も今につながっていると感じるから、仕事を「今日の糧と明日の夢」だと語る。

退職後、小説で「伝」える道に転じた。組織とは違い、個人の腕で決まるので「毎日が戦い」だ。 しかし、「自信があるなら好きなことに挑戦するべき」と選択に後悔はない。

池井戸氏の転身は、「自身のデータベースの幅」に強みを持っていたからだ。「ごく普通の貧乏学生」と振り返る塾生時代に、幅広い分野の本を読み、小説の構造を学んだ。これが、物語の自然な展開を導き出す基準となっている。作家の良し悪しを左右するこの幅は、社会に出てからでは広げられない。「学生のうちに、どんな分野でもいいからたくさんの本を読んでほしい」。

世の中の不条理に立ち向かう物語が多いが、小説を書く目的は、社会の歪みや人間の本質をあぶり出すことではない。自身を「エンターテイメントの作家」と称し、目指すのは「『インディ・ジョーンズ』のように、読んだあと爽快になれる物語」。「新しさ」「自分らしさ」「豊穣さ」の三つを軸に、面白い物語を描く。そして、読者全員を楽しませるために易しく伝えることを心がけている。

また、読者の視点を考えるからこそ、登場人物を「それぞれの人生を背負っている実在人物のように」扱う。感情移入や自己投影を自然にさせるためだ。台詞は全て自然の成り行きに任せている。「倍返し」などの名台詞もアドリブの一つだ。

物語の展開を進めるための「操り人形」は作らない。だから、完全な善も悪もいないのである。半沢直樹も「単純な正義の味方ではない」し、悪役も、裏側を探ると読者自身と似ていたりする。日常生活では分からない人の内面こそ、小説の面白さだという。

「ひたむきさ、優しさ、強さ、賢さ」。人を描き続ける池井戸氏が思う、社会に出てから絶対に失ってはいけない人間の要素だ。「働くようになれば、必ず壁にぶつかる。でも、それは目の前の仕事を一所懸命こなすことでしか解決しない」。そして、大変な修羅場のときこそ、人間としての余裕を持つことが大事であり、「この余裕が賢さで、その人の人間性を決める」と語る。

実社会には「公式も答えもない」。だから、「自分で考えて道を切り拓いていくしかない」。そう語る池井戸氏は、新しいことへの挑戦を繰り返し、今日もより痛快なエンターテイメントを模索し続ける。

(鈴木悠希子)