「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
一九七九年、村上春樹はこの有名な一節で、作家としての産声を上げた。村上の処女作『風の歌を聞け』。半世紀近く前の物語でありながら、現代の私たちが読んでも、その内容は驚くほど新しい。
舞台は一九七〇年の夏。海辺の街に帰省した、東京の大学に通う21歳の「僕」の物語だ。そこには劇的なドラマは何一つ起こらない。友人の「鼠」と「ジェイズ・バー」で大量のビールを飲み、煙草を吸い、ラジオから流れるポップミュージックを聴き、行きずりの女の子と寝る。ただそれだけの、ありふれた、しかし二度と戻らない季節の断片が、断章形式で淡々と綴られていく。
本書が当時の日本文学界に与えた衝撃は、その「文体」にあった。それまでの重苦しいそれではなく、まるでアメリカの小説のような平易でリズム感のある文体は、斬新なものだった。しかし、その軽やかさの裏側には、常に深い喪失感と空虚さが横たわっている。まさに村上の文体の特徴であり、それこそが我々現代人を惹きつけてやまない所以ではなかろうか。
本作の文体の特徴として、その徹底した「距離感」にある。主人公の「僕」は、自身の人生をどこか遠くから眺めるような、冷笑的とも言えるほどに冷めた視線を世界に対して向けている。そんな彼はこの世界のあらゆる事象を、淡々と文章にしようと試みる。架空の作家「デレク・ハートフィールド」、自分の生れ育った街、友人の「鼠」、「かつて寝た女たち」について。しかし、このような冷徹な態度の根底には、実は深い誠実さが隠されている。
彼は「文明とは伝達である」という言葉を指針に、自分を通り過ぎていった死者たちや、二度と戻らない時間を、言葉という形にして繋ぎ止めようとしているのだ。彼にとって「書く」という行為は、自己を表現するための手段ではない。それは、失われ続ける世界に対する最低限の「儀式」であり、自分自身の孤独を正しく測り直すための作業なのだ。
言葉だけではない。「三番目に寝た女の子」と交際していた時期、「僕」はすべてを測定する性癖に憑りつかれた。飲んだビールの本数、セックスの回数、吸った煙草の数。数字により、彼は自身の「存在理由」を見出そうとした。しかし、それは叶わなかった。
「結局のところ、文章を書くということは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしかすぎないからだ。」
物語の中では、あらゆることが感傷的に、そして詳しく語られることはない。「僕が三番目に寝た女の子」の自死すらだ。しかし、その「語らなさ」こそが、失われたものの重さを逆説的に浮き彫りにする。書くという行為は、自己を癒すためというよりも、踏みにじり、見捨ててきたものたちの姿を記憶に刻むための、最低限の礼儀なのだ。何かを語ることで、その対象を「存在したもの」として繋ぎ止めようとする。
「あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんなふうにして生きている。」
この言葉は一見、「完璧な絶望への諦観」を説いているように思えるかもしれない。しかし冒頭の一文にあるように「完璧な絶望」は存在しないのだ。この物語は、完璧な絶望を見出し、ただ諦観する物語ではない。すべてが風のように通り過ぎ、何も捉えられないという真理を受け入れたとき、私たちは初めて、目の前の不完全な世界を肯定できるようになる。
一九七〇年の夏、海辺の街で「僕」が綴った言葉の断片。それは、今を生きる私たちにとっても、かけがえのない道標となるだろう。
(小野寺望)