今回は、慶應義塾大学文学部 社会学専攻の李光鎬教授にお話を伺った。社会学専攻の具体的な研究内容から、人間科学専攻との違い、さらには先生ご自身の研究テーマであるメディア研究や、留学経験を踏まえた国際的な学問観に至るまで、詳しくお聞きした。
慶大文学部「社会学専攻」の構成と特徴
・ 社会学専攻の特徴や研究内容について教えてください。
―社会学専攻の最大の特徴は、その名称とは裏腹に、大きく「社会学」「文化人類学」「社会心理学」という3つの関連する領域が共存している点です。現在、文化人類学の教員が2名、社会心理学の教員が2名います。そして社会学を専門とする教員は、家族社会学、都市社会学、文化社会学、医療社会学(ケアの社会学)、あるいは社会学理論そのものなど、それぞれ多様な分野を専門としています。
・3つの領域が共存しているのですね。それぞれの領域では、具体的にどのような研究が行われているのでしょうか。
― 例えば文化人類学では、宗教学(宗教人類学)や、東アジア(台湾、韓国)をフィールドとする宗教関連の研究が行われています。社会心理学は、私を含めて2人体制です。私は社会心理学の観点からメディアの研究をしていますが、もう一人の教員は、リスク行動、環境(環境保全のための行動)、あるいはゲーミング&シミュレーションといった分野を研究しています。
・李先生ご自身の研究について、もう少し詳しくお伺いできますか。
― 私は社会心理学の観点からメディアの研究をしており、主な研究対象は「メディアの利用行動」です。テレビや新聞といったレガシーメディアだけでなく、ソーシャルメディアやAIの利用にも関心を持っています。人々がメディアをどのように利用しているのか、何を求めているのか(利用の動機、欲求)を明らかにしようとしています。また、メディア利用が人々にどのような影響を与えるのか、そこから得られる快楽や楽しみについても、社会心理学の理論を用いて研究をしています。

「人間科学専攻」との違い
・慶大の文学部には「人間科学専攻」もありますが、社会学専攻とはどのような違いがあるのでしょうか。研究領域が似ているようにも感じます。
― ご指摘の通り、両専攻とも社会学、社会心理学、文化人類学の教員がおり、研究領域は似ています。しかし、研究アプローチと教員構成に明確な違いがあります。
・ まず、研究アプローチの違いについて教えてください。
― 人間科学専攻は、統計や計算社会学など、計量的なアプローチで研究することが多いです。社会学に関しても計量的な手法が主流です。
一方で、社会学専攻は、統計やサーベイよりも、フィールドワーク、インタビュー、参与観察といった質的なアプローチでデータを集めて分析することが多いです。この違いはカリキュラムにも反映されており、人間科学専攻は計量的な方法を、社会学専攻はインタビューやフィールドワークの方法を身につけさせるカリキュラムが充実しています。
・教員構成や専門性の違いはいかがでしょうか。
― まず社会学については、社会学専攻の方が教員が多いです。社会心理学については、人間科学専攻の方が教員が多いです(社会学専攻2名に対し、人間科学専攻は3名程度)。対人関係の研究など、社会心理学の「本流(メインストリーム)」を学びたい場合は、人間科学専攻の方が指導を受けられる先生が多いでしょう。対照的に、社会学専攻の社会心理学は、その知見や理論をメディア現象、リスク行動、環境問題といった様々な社会問題に「応用」する、「応用社会心理学」の側面が強いです。
例えば、災害時の行動や環境問題に対し、ゲームやシミュレーションの手法で個人の行動変容を考える研究(杉浦先生)や、メディア利用者の内面を扱う私の研究も、応用的な側面を持っています。
文化人類学は、教員の人数は両専攻とも同じくらいですが、専門とするフィールドが異なります。社会学専攻の教員は東アジア(台湾、韓国)やアフリカの旧フランス領を扱いますが、人間科学専攻の教員はアフリカや医療人類学といった分野を対象としています。
・ 社会学専攻ならではの強みはありますか。
―例えば、メディア研究に関しては、社会学専攻に強みがあると言えます。私のような社会心理学からのアプローチだけでなく、文化社会学や、メディア人類学(文化人類学の視点)からメディア研究を行う教員もいますので、多角的に学べる環境です。
・専攻を選ぶ上で、進級要件の違いも気になります。
― それは大きな違いがありますね。社会学専攻は、2年次から3年次に進級する際に要件があります。具体的には「三概論」(社会学概論、社会心理学概論、文化人類学概論)の単位取得が必須条件です。これら(春・秋学期の計6コマ)のうち一つでも単位を落とすと留年になってしまいます。一方、人間科学専攻は、2年から3年への進級要件は無いと聞いています。
他大学の似た学部や専攻との比較
・ 他大学の社会学部などと比較した場合、慶大文学部の社会学専攻にはどのような特徴がありますか。
― 率直に言って、他大学の社会学部などと比べると規模は小さいです(専攻の担当教員が少ない)。社会学を専門とする教員は、人間科学専攻と合わせても多くはありません。教員が学内に散らばっており、文学部の専攻にいる人は少ないのが実情です。足りない部分は他大学からの非常勤講師が補っています。そのため、社会学のメインストリームを体系的に学び、将来社会学者になることを目指す人には、少し物足りないかもしれません。しかし、先ほど申し上げた「社会学、文化人類学、社会心理学という3つの分野が共存している点」こそが、本専攻の最大の強みです。学生はこれら3分野の科目を横断的に履修することになります。これにより、一つの学問分野からだけでなく、3つの視点から社会現象を捉えることを学べます。この柔軟で、多様で、融合的な視点を持てるような教育が特徴です。
専攻が求める学生像と卒業後の進路
・ 社会学専攻はどのような学生に来てほしいと考えていますか。
― 実は、特に「こういう学生に来てほしい」というものはありません。また、事前の学習も不要です。「社会学に興味がある」「社会学を学びたい」「社会問題について考えたい」という関心さえあれば十分です。
・卒業生の進路についてはいかがでしょうか。
― これは文学部全体に言えることですが、就職先の業種は非常に多様です。特定の業界に集中している印象はあまりありません。昔はメディア業界(放送局、新聞社、出版)に関心を持つ学生が多数いましたが、狭き門でした。最近の傾向としては、コンサルティング業界が人気な印象があります。その他、メーカーや金融なども多いですね。

メディア研究とメディア・コミュニケーション研究所
・李教授の研究テーマでもあるメディアについてお伺いします。メディアは時代によって主流のものが変わりますが、学生の志向や興味はどのように変化してきましたか。
― まさにメディアの変化に合わせて、学生の興味関心も移り変わってきましたね。かつて報道メディアが中心だった時代は、メディア研究=ニュース研究であり、ジャーナリスト志望の学生も多かったです。 その後、インターネットとソーシャルメディア(Facebook, X(旧 Twitter), Instagram)が普及すると、そこでの交流、アイデンティティ、承認欲求、偽情報の拡散などに関心が移りました。
最近はさらに多様化しています。TikTokやYouTube Shortsといったショートフォームムービーへの関心が非常に大きいですし、Netflixなどの普及により、ドラマ、恋愛リアリティ番組、オーディション番組といったエンターテインメントメディアへの関心も強まっています。また、AIと我々の関係性についての研究も盛んになっています。
・メディア研究というと、「メディア・コミュニケーション研究所(メディアコム)」もありますが、社会学専攻とはどう違うのでしょうか。
― まず、社会学専攻の学生でメディアコムの研究会に所属している学生は結構います。その上で違いを説明しますと、社会学専攻でのメディア研究は、純粋に「アカデミック」なものです。社会学、社会心理学、文化人類学といった学問的観点からメディア現象や利用行動を研究します。特定の職業を前提とした教育ではありません。一方でメディアコムは、研究会も学問的ではありますが、将来メディア業界で働く人にとって必要とされる内容(例:ジャーナリストに必要な思考、広告制作・分析など)にフォーカスされています。
・メディアコムの特徴について、もう少し詳しく教えてください。
― メディアコムは、元々は記者を養成する「新聞研究所」でした。現在もジャーナリスト養成という目標はありますが、メディア業界が多様化したため、放送、出版、広告など、広くメディア業界に進みたい学生の準備をサポートするものになっています。
教員は、専任教員(ジャーナリズム研究、メディア心理学、メディア法制度など)と、私のような学部所属の教員(法学部のジャーナリズム研究者や福澤研究センターのメディア史の研究者など)が研究会を持っています。最大の特徴は、研究会だけでなく、新聞社、放送局、広告代理店、PR会社などで働く
現役の実務家が講師として授業を行う科目があることです。
・メディアコムは、どのような学生を求めているのでしょうか。
― 先ほど申し上げた「目的」がそのまま答えになるかと思います。元々は記者養成の場所でしたが、現在は放送、出版、広告など、広くメディア業界に進みたい学生の準備をサポートする機関となっています。ジャーナリズムへの関心はもちろん、多様化するメディア業界で活躍したいという意欲のある学生が集まっていると言えるでしょう。
・ メディアコムの卒業生の進路も気になります。
― 卒業生の約半数弱がメディア業界(新聞社、放送局(NHK・民放)、通信社、広告代理店(特に博報堂が多い印象))に就職します。残りの半数は、非メディア系の一般企業に進みますが、広報や広告制作部門などで活躍するケースも多いです。
李先生の学問観:日本と世界を比べて
・最後に、李先生ご自身についてお伺いします。先生は韓国の大学から慶應義塾大学大学院へ進学されたご経歴をお持ちですが、留学経験を踏まえた学問観や、国際的な学びについて教えてください。
―私は平成元年に、韓国の延世大学で修士号を取得した後、博士課程に進学するために来日しました。当時、韓国からの留学先はアメリカが主流で、韓国の大学教員のほとんどはアメリカ留学経験者でしたから、日本への留学は珍しい選択でした。学位取得後、幸いにも日本で教職を得て、現在まで30年ほど大学教員をしています。
・ 日本の学問について、どのような印象をお持ちですか。
― 私は、日本の社会科学の学問的アプローチを高く評価しています。アメリカと日本を比較すると、アメリカの大学はカリキュラムが体系化されており、学問領域全般の知識を学ばせる傾向があります。一方、日本は体系的な教育という点ではアメリカに比べると弱いかもしれませんが、学問の自由度が高く、個人の関心を深く追求することを推奨する文化があります。日本の研究成果は、「狭いかもしれないが深みがある」「専門性が非常に高い」という強みがあり、そこに私は魅力と面白さを感じています。
・ 日本の学問の課題については、どのようにお考えですか。
― 私は日本の学界で活動できることに誇りを持っています。しかし同時に、日本の学問や研究のレベルは非常に高いにもかかわらず、それが世界に発信されていないという大きな課題があると感じています。日本の学会は内向きで、グローバルなプレゼンスがありません。国際学会に参加しても、中国や韓国の研究者の活動が活発な一方で、日本の研究者はほとんど見かけないのが現状です。
この英語での発信不足が、日本の大学ランキングが低迷している要因の一つだと私は考えています。素晴らしい研究成果がすでにあるのに、それを世界に認めてもらうことができていない。この現状には、非常にもどかしさを感じています。
(中野雄斗)