立ち上がるきっかけに 1964年東京五輪日本選手団主将 小野 喬さん

 東京教育大(現筑波大)を卒業後、慶應義塾大学法学部政治学科に編入。慶大在学中にメルボルン五輪に出場し、体操種目の団体総合で銀、鉄棒で金など5個のメダルを獲得する。東京五輪では、日本選手団主将や開会式の選手宣誓を務めた。4大会に出場した五輪での獲得メダル数13個は、日本人最多である。現在は日本スポーツクラブ協会の相談役や、日本マレットゴルフ協会の会長を務め、今もなおスポーツの発展に尽力する。
56年ぶりに東京での開催が決定した夏季五輪。若い世代にとって、自国開催の五輪の雰囲気はどのようなものなのか未知である。1964年の東京五輪の歓喜を、選手として味わった小野喬さん。49年前の開催時、日本の盛り上がりはどのようなものだったのか。2020年東京五輪への期待と課題とともにお話を伺った。

***

国民の声援が後押し

本当は1960年のローマ五輪の時点で体操選手を引退しようと示唆していた。「夕方からの練習で職場にも迷惑をかけていたし、ベテランが居座るのは若手の成長の妨げになる」。

ローマの4年後に迫っていた東京五輪。それまでに出場した五輪3大会で、12個のメダルを獲得し、日本を代表する選手だった小野さん。東京五輪でも日本選手をけん引する活躍を見せてほしいという周囲の期待が大きいのは当然だった。「競技者としても、自国の五輪の舞台に立ちたいのは自然な気持ち」と、現役続行を決意する。

ローマ五輪の時点で29歳と、体操選手としては晩年を迎えていた。年々演技の衰えを自身で感じ取りながらも、選考予選をギリギリで通過し、東京五輪出場の切符を掴み取る。
 
東京五輪では、日本選手団主将、開会式の選手宣誓と、数々の大役を受け持った。「選手宣誓は暗記で言わなくちゃいけなくて、覚えるのがとても大変だったよ」。満員に埋め尽くされた国立競技場で、選手宣誓は競技中とはまた違う緊張感があったと振り返る。

「競技生活の中で、東京五輪の時ほどパワフルな環境で演技を行ったことはなかった」。競技者にとって、たくさんの声援があるかないかは、競技に入る際の気持ちに大きく影響を与える。五輪直前に痛めた右肩の影響で苦しい演技となったが、会場に駆け付けた国民の大きな声援に支えられた。団体総合の一員として堂々の金メダルを獲得した。4回の五輪に出場した小野さんにとっても、大きな声援を送ってくれる国民の目の前で演技ができた東京五輪は、一番思い入れがあると話す。

「オリンピックはスポーツのためだけの祭典ではない」と話す小野さん。「戦後の復興」を掲げた1964年の東京五輪の際も、招致の際には開催するための金銭面への不安など、反対意見も数多く出ていた。「どんな物事にだって反対意見は出てくる。反対意見以上に、五輪開催を日本が国際社会に復帰する大きなチャンスと捉える意識のほうが強かった」と当時の招致活動を振り返る。東京五輪の開催の意義を招致団全体が強く共有したことで、招致に成功させた。

「五輪開催決定」をきっかけに、東海道新幹線など、高度経済成長を大きく支えるインフラが整備されるなど、国全体が大きく動いた。「敗戦」から立ち上がろうとする日本の背中を、東京五輪は押してくれたのだと言う。

育成環境に抱える問題

震災から立ち上がる日本を元気づけるきっかけとして、2020年東京五輪にも期待を寄せる。その傍ら、「日本のスポーツは、他国に比べて行政による支援がされていない」と話す。各省庁での利権争いが激しい日本の縦割り行政が、スポーツ発展の足かせになっていると言う。

五輪を本当の意味で盛り上げるのは、やはり出場選手たちの活躍だ。ただ開催すればいいだけではなく、東京の舞台で多くの日本人メダリストが誕生することこそ、国民に一番元気を与えることだろう。未来のメダリストを育成する環境整備のため、今回の五輪はスポーツ育成環境面においても、一つの改善のきっかけとなる五輪になればと小野さんは訴える。

「震災」からの復興を掲げる2020年東京五輪と、「敗戦」からの復興を掲げていた1964年の東京五輪。苦難から立ち上がり、国民に元気を与えるためのきっかけに。56年が経っても、東京で開催される五輪に寄せられる役割は変わらない。 (小林知弘)