慶應義塾は2025年に創立167周年を迎えた。その歴史の礎をなした第一の立役者に、福澤諭吉が挙げられる。この企画では、福澤諭吉の歴史を紹介していきたい。本人の行動にはどのような意義や事情があるのか、歴史好きもそうでない人にも「面白い」と感じてもらうことが目標である。そこで、再び福澤研究センターの都倉武之教授に取材を行った。
●大阪で学ぶことで、本当の学問を知る
−適塾(緒方塾)での生活
初めに、福澤諭吉が緒方洪庵に師事し、蘭学を学んでいた背景を都倉教授に質問した。福澤が学んだ場所は、大阪の適塾(緒方塾)だが、福澤は「大阪」で勉強する意味を語っている、と都倉教授は話した。江戸では、国際情勢に対応すべく幕府が蘭学者を重宝したため、蘭学の需要は高かった。一方、大阪で蘭学を学んでもニーズはなく、社会的意義が乏しい。しかし、目的なしに蘭学に励む環境が、門下生たちのなかで本当の学問を学んでいる、という自負につながった面もある。都倉教授は、「国立に対する慶應の立ち位置や私立の誇りは、大阪の適塾で勉強した影響を受けている」と分析する。また、師・緒方洪庵が、医者として学問を実社会に活かした姿勢は、慶應に連綿と受け継がれる『実学の精神』の基盤と言える。
−やんちゃな青春と学問の追究
実際の生活の様子を聞くと、都倉教授は「福澤たち適塾の門下生は血気盛んな若者で、当時の大阪の人々からは柄の悪い集団とみなされていた」と語る。特に、漢方医学を学ぶ華岡塾の門下生とは、身なりから大きな差があり、街中で因縁をつけ合う仲だった。破天荒な青春時代の逸話は、『福翁自伝』にありありと書かれている。
その一方で、勉学には寝る間を惜しんで励んでいた。具体的には、新たに日本に入ってきた蘭学書を読み解くために、塾内に1セットしかない蘭和辞書を皆で奪い合って勉強していた。学習環境が整った現代の感覚とはかけ離れているが、門下生の切磋琢磨からは学べる部分も多い。
●論理的に考える力と独立心が西洋にあって日本にない
−当時の日本と西洋の、本質的な違い
ここで、福澤が当時の日本を、西洋と比較してどのように捉えていたのかに触れたい。福澤の関心事として、「論理的に物事を考える力と独立心が当時の日本人に欠けていた」と都倉教授は語った。福澤を驚かせたのは、西洋の市民が、一人ひとり主体的に考えて国の一員として生きていたことである。しかし、空気に流されやすい日本人には、自分が主体であるという思考文化は根付いておらず、この状況を打破するには学問こそ必要と考えた。
福澤が掲げた教育の目的は、学問を学び、知らないことを減らして自信をつけ、自分で考える力を持った人間を育てることだ。また、『演説』・『討論』の文化を学問のアウトプットと相互理解のために、日本に取り入れた。
『個人の独立』により国が活性化していった結果、西洋は繁栄していた。『一身独立して一国独立す』の格言には、それを重視した福澤の課題意識が見られる。
●教育の普及が目的
−福澤一門が慶應以外に関わった教育機関
実は、福澤が設立に貢献した教育機関は、慶應のほかに多く存在する。当初は、故郷・中津で中津市学校を運営するなど多様な取り組みを行ったが、短命に終わった。一方で、福澤は商業教育の普及にも力を入れており、設立に関わった学校では、商法講習所として明治8年に創立された一橋大学がトップバッターに当たる。以降、福澤本人や慶應義塾が協力して建てた学校を列挙すると、現・大阪公立大学なども含まれる。都倉教授によれば、福澤は慶應に限らず、色々な手段で教育を広めることが目的だった。
−大隈重信と刎頸の交わり
福澤と、早稲田大学の創設者・大隈重信に熱い交流があったことは、慶應義塾の歴史を語る上でも重要だ。都倉教授の解説では、2人の交流についてはおおむね、記憶力に優れる大隈が語った回想談から伝えられている。政界の大物である大隈と、政治に関与しない福澤だったが、ある会合で出逢ってすぐに意気投合し、親密になった。大隈は率直に「わが輩は福澤先生が大好きなんである」と語り、福澤も度々大隈邸を訪れていたと伝わる。
明治14年に大隈が政府から失脚した際、福澤が「あなたも教育事業を始めたらどうか」とアドバイスをしたことで、早稲田大学の源流になる東京専門学校を始めた。そして、初期の早稲田大学や政治家としての大隈自身を支えた人々の中には、政治の分野に積極的な慶應出身者が多かった。
●きっかけは明治14年の政変
−時事新報を開始した理由
福澤は、学問を通じた教育活動だけでなく、「事業家」として幅広い活動を行っている。そこで、時事新報という新聞を始めた背景はどのようなものだったのか、話題に挙がった。都倉教授は、「時事新報を開始した直接のきっかけは、明治14年の政変」と語る。政界とは距離を保っていた福澤だが、イギリス型の議院内閣制の国をつくることで大隈や伊藤博文、井上馨と意見が合致し、世論形成のために政府の広報新聞の出版を引き受けることになった。しかし、政変によって伊藤や井上が保守派に転じ、大隈や慶應関係者が政界から排除され、計画は頓挫する。そこで福澤が、政府とは無関係に、自身の考えを明らかにするために創刊したのが時事新報である。
−時事新報の内容
都倉教授は時事新報を「いわば慶應義塾の機関紙」と表現した。福澤が、独立自尊に相当する言葉・「独立不羈(どくりつふき)」をモットーに掲げていたことが証左である。
時事新報は政治・経済・エンタメと、広範な話題を論じていた。当時の新聞は知識層が読む「大新聞」と、庶民が読む「小新聞」で内容も異なり、情報格差が生じていた。時事新報はこれを打開するべく、様々な職業に関して柔軟に論じ、社会を活性化させることを目指していた。都倉教授は、時事新報のコンセプトを「家族団らんの中で話題を提供すること」、「インクルージョンを創り出していくこと」と語った。
●海外との関係を活発にするには、お金のやり取りを活発にする
−福澤諭吉が金融に残した貢献
最後に、旧1万円札の顔になった福澤と、当時の金融の関わりについて質問した。都倉教授は、「福澤は明治13年の横浜正金銀行の創立に関わり、金融面で大きい足跡を残した」と語る。横浜正金銀行は、外国為替の取引を行う唯一の窓口だった。福澤が、大蔵卿を務めていた大隈と中心的な役割を担った理由は、経済の側面で海外との関係を発展させるために、お金のやり取りを活発にする必要があったからである。
−慶應義塾に受け継がれる精神
横浜正金銀行の意義は、海外の日本人コミュニティの核になったことも大きい。多くの慶應関係者が横浜正金銀行に関わり、海外の主要都市の支店長に赴任した。ロンドンなどの大都市では、支店長の家が現地の日本人の情報交換のサロンになった。横浜正金銀行は戦後、東京銀行に転じ、現在の三菱UFJ銀行につながっている。他にも、早くから海外に進出した企業には、多くの慶應出身者が率先して飛び込んでいた。
近代史において、慶應は一つの私立学校という枠を超えて、実に多様な役割を果たし、その開拓精神が現代に受け継がれてきた。時代を越えて継承されたのは、卒業生のコミュニティが国内外で形成されたこともあり、三田会のネットワークを遡ると、横浜正金銀行も関わっているといえる。
ただ、帰属意識が強いだけでは、鼻につく「閥」になるが、慶應義塾には社会をより豊かにするため、政府のカウンターパートが必要という福澤の問題意識があった。
都倉教授は、「福澤の考え方は、江戸に対抗して蘭学を学んだ大阪の緒方塾から来ている」ともいえるのではないか、と語った。
この企画では2回の連載を通して、福澤の歴史に光を当てた。しかし、ここで取り上げた内容がすべてではないため、より細かく知りたい方には、まず『福翁自伝』がおすすめである。
福澤が意識を向けたミッションは、現代の日本人にも聞く価値が非常に高いものである。本企画が福澤諭吉の魅力を伝え、特に「学ぶ」、「学びを社会に活かす」、「開拓精神を持つ」大切さを意識する機会となれば幸いである。
(大久保凱皓)





