【特集】 創刊40周年を迎えて 

弊紙、『慶應塾生新聞』が創刊されてから今年で40年。会員の入替わりが激しい学生新聞でありながら、40年間もの長きにわたり発行し続けることができたのは、読者の支えがあってこそだ。感謝申し上げたい。今回、これを機に弊紙を通じ、慶應義塾の40年間を振り返るとともに、今後、塾生新聞会のあるべき姿について展望したい。
(宮島昇平・小柳響子・西原舞・花田亮輔)


40周年特集 記事一覧

創刊号1面(昭和44年4月25日付)
創刊号1面(昭和44年4月25日付)

創刊の経緯

塾生新聞が創刊された1969年は学生運動のさなかだった。全国的に学生が大学の管理体制へ反発を強める中、義塾でも塾内の学生新聞は過激派の機関紙となっていた。
この状況に危機を覚えた9人の塾生が集まり、一般塾生の視点に立つ学生新聞を目指して塾生新聞が創刊された。創刊号一面の見出しは「慶應義塾これでよいのか」。塾生に対し、学生生活の送り方に疑問を投げかけるものだった。

塾生新聞は当時から「公正中立」、「不偏不党」を掲げ、既存の学生新聞とは一線を画した客観的な報道を貫いた。また、創刊以来、義塾などから経済援助を受けることはなく、主に広告収入による発行を続けた。以上の報道姿勢、経営体制は40年を経た現在でも変わっていない。
しかし、紙面は時代の流れとともに変化を遂げてきた。報道、企画ともに多様化が進み、連載も増え、現在に至る。

紙面で振り返る40年

塾生新聞の紙面に躍る「内定取り消し」の文字。サブプライムローン問題に端を発した昨今の経済状況を反映した記事かと思いきや、何とこの見出しが掲載されたのは1972年(6月10日付)というから驚きである。
このように、過去の記事を紐解けば意外な事象に遭遇する。塾生新聞40年の歴史を振り返りつつ、当時の紙面から発見された多種多様な記事を少しだけ紹介したい。
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「日吉無期限ストに突入」(昭和44年7月10日付)、「機動隊ついに導入さる」(同年9月10日付)、「安保粉砕でピケスト」(昭和45年7月10付)――創刊間もない60年代後半から70年代前半にかけての紙面を眺めると、やはり目立つのは学生運動の記事である。学費値上げ反対運動が慶大で盛り上がった1973年3月10日付の記事には、次のようにある。
「二月十二日午後一時から三田五一八番教室において、三田全学学生大会が開かれた。会場には約二千五百名の塾生が集まり、〝異様な〟熱気につつまれた(中略)ヤジと怒号の中、四年生の〝なりふりかまわぬ〟「スト解除」を要求する意見が目立った半面、「卒業・進級」を強調するあまり、事前協議制や学費値上げそのものの問題が不問にされるという結果に終わった」
今の慶大キャンパスの様子からは想像できない学生運動の姿が、迫力ある写真や文章からうかがえる。とはいえ創刊初期から「女子学生をさぐる」(昭和46年6月10日付)や、1年生が反省を込めて自らの大学生活を語る「見よ!日吉のこの沈滞 大学に入って何をした」(昭和47年1月10日付)など、学生新聞らしいユニークな企画記事も多く見られる。
70年代中盤からは、「アイドル登場」という現在の「キャンパスアイドル」へとつながるコーナーが登場。世相を反映してか、号を重ねるごとに学生運動関連の報道記事は減少していき、スポーツや慶應義塾の公式行事などを伝える記事が主流となっていく。
「政治の季節」が終息へ向かった後も、時代に関連した様々な企画記事が紙面を飾る。1984年1月には、「特集1984」と題した企画の一環として、オーウェルの小説「一九八四年」に関連した慶大教授へのアンケート結果を掲載。戦後長らく政権の座にあった自民党が下野する直前(平成5年7月10日付)では、総選挙についての意識調査を実施。「自民急落、日本新党トップへ」と、その結果と分析を詳細に報じている。また、1997年の紙面には「ウインドウズ95登場 日吉・三田計算室」、「ボタン1つでホームページ」という大見出し(4月3日付)。当時はまだ「計算室」という名称が使われていた。   こうした「時代を感じさせる」記事が目立つ一方で、現在と同じような状況を伝える過去の記事も興味深い。塾生の素朴な疑問に弊紙記者が体を張って答える「こちら三田探偵事務所」などの長寿連載からは、いつの時代も変わらぬ「無軌道な青春のあり様」が伝わってくる。微笑ましい記事がある一方で「園遊会の夜は大騒ぎ 立つ鳥後を濁しまくり」(平成4年9月10日付)といった塾生の問題行為を伝える記事も度々見られる。昨年度の園遊会が、主催団体の不透明な会計処理や周辺ホテルでの迷惑行為などによって、公式行事としては中止に追い込まれたことを思えば、笑って読めたものではないだろう。

昭和44年11月10日付の紙面
昭和44年11月10日付の紙面

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有名人へのインタビュー記事も見逃せない。反町康治サッカー元日本代表監督(平成12年10月20日付)に、エッセイストの阿川佐和子氏(平成13年7月5日付)、さらには若かりし頃の小泉純一郎氏(平成5年11月20日付)まで、実に多くの人物に取材を敢行。「人生逃げちゃいかん」(小泉氏)など各人の様々な人生観、塾生時代のエピソードなどが語られている。慶大文学部に在籍していた頃から音楽活動を始めていた竹内まりや氏も、「竹内マリア」として在学当時の紙面に登場(昭和54年1月10日付)。記事の最後で竹内氏が「中世英語学」など3科目のノートが募集しているのも、学生新聞らしい。
もちろん、著名人ではない現役学生の活動に密着した記事も魅力的だ。無名かもしれないがそれぞれの分野で人知れず努力する塾生、各体育会の詳細な試合結果――学生新聞の強みの一つは、一般紙にはあまり掲載されない学生の想いや動きを、丹念に拾い上げることができる点にもあるだろう。
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紙面の都合上、ここに紹介できなかったユニークな記事は多々あるが、塾生新聞40年の歴史の間に書かれた記事は、100号ごとに縮刷版としてまとめられ、現在でも閲覧可能だ。これを機会に是非、手に取られてはどうだろうか。

塾生新聞が報じた慶應義塾の40年

主な出来事 報道記事 見出し
昭和44年 4月 慶應塾生新聞、創刊 「慶應義塾これでよいのか」
5月 佐藤朔文学部教授、塾長に就任 「二カ月かかった塾長選」
昭和46年 11月 六大学野球、9シーズンぶりに優勝 「興奮 三田の山 9シーズンぶりの優勝」
昭和48年 1月 三田キャンパス、日吉キャンパス、全学ストライキ 「バリケードの中でクリスマスパーティー」
3月 三田はストライキを解除 「三田は卒業式を挙行 経済学部では一時混乱」
4月 入学式も中止 「入学式は初の中止」
昭和52年 5月 石川忠雄法学部長、塾長に就任 「学生数を適正規模に」
商学部で入試問題漏洩が発覚 「問われる慶応の体質 不正入試事件で揺れる」
昭和53年 4月 帰国子女受け入れを決定 「来年度より法・商・工・医で」
昭和58年 6月 創立125年記念式典挙行 「塾生・塾員6500名が参加」
昭和60年 4月 日吉新図書館オープン 「日吉の核となりうるか」
6月 石川忠雄塾長3選 「内面的な充実 方針に」
昭和62年 3月 藤沢新学部案が発表 「実践重視 鮮明に」
平成元年 3月 試験問題盗難の受験生逮捕 「医・理工の受験生、逮捕 単独犯の見込み」
4月 石川忠雄塾長4期連続で再選 「学校経営の手腕を評価 在任16年は戦後最長」
10月 佐野教授(商)、初の女性学部長就任 「大学院の充実を望む 佐藤陽子商学部長」
平成2年 2月 入試に新テスト導入 「法・医で私大初の新テスト実施」
4月 SFCに総合政策学部・環境情報学部開設 「周辺住民と懇談会 公開講座など前向きな姿勢」
平成3年 3月 第1回塾長賞授与 「塾長賞を新設 文化活動などを評価」
11月 野球部春秋連覇 「投手王国 有終の美」
平成7年 5月 情報スーパーハイウェイ計画公開 「慶応をマルチメディアが結ぶ」
10月 日吉駅ビル完成
平成8年 4月 六本木にビジネススクール開校 「日本の経済論を世界に発信」
6月 六大学野球優勝、高橋由伸が3冠王 「断突の5割5本塁打」
平成11年 6月 慶應塾生新聞会30周年を迎える 「ひとえに読者の方々のおかげです」
平成13年 5月 新塾長に安西理工学部長が就任 「義塾に新たな風 安西流教育理念を提示」
平成16年 4月 法科大学院が開校 「法科大学院が開校」
平成18年 11月 共立薬科大学との合併公表される
平成20年 11月 創立150年記念式典挙行 「日吉で創立150年記念式典 天皇、皇后両陛下もご臨席」