慶應義塾大学は、福澤諭吉が掲げた「実学」の理念を実現するために、教育や研究など多くの社会的事業を行っている。中でも「医療」は、慶應が最も広く社会に貢献し続けている領域である。一方で、医学部・看護医療学部・薬学部といったか医療系学部以外の塾生にとっては、慶應の医療についてあまり知る機会に恵まれていない。そのため、この企画では他キャンパスの塾生に向けて、慶應義塾大学病院の活動を紹介していきたい。それらを一つの情報として持ち帰るにとどまらず、貴重な学びの期間に、「学びを社会に活かす」とは何を意味するのかに興味を持ってもらうことが目標である。本記事では、慶應義塾大学病院の福永興壱病院長に取材を行った。
「基礎医学と臨床医学に集う者は、一家族のごとく」基礎研究と臨床の連携
信濃町キャンパスでは、大学病院と医学部の教育を行う各校舎が隣り合わせになっている。一般に、研究的な基礎医学と実際の医療に関わる臨床医学に分かれるが、慶應では両者が密接に連携しており、基礎研究で得た成果を臨床に応用できる「トランスレーショナルリサーチ(橋渡し研究)」に注力している。また、福永病院長はキャンパスに基礎と臨床の建物が共存する恩恵として、「診療等で得た患者のデータや資料のうち許可をいただけたものを、基礎で解析し、再び臨床に落とし込める」と述べた。
これは、机上の勉強を実社会に活かす実学の精神に則ったものであり、初代医学部長・北里柴三郎も、基礎医学・臨床医学に集う者は、「一家族のごとく」と唱え、両者が協力する体制を理想としている。福永病院長は、近時でも北里の教えを体現した活動として、「ドンネルプロジェクト」を紹介した。これは、コロナ禍初期に基礎医学に携わる教授陣が臨床医を支援する目的で提案し、共同で研究に当たったものである。ちなみに「ドンネル」とはドイツ語で「雷」を意味しており、北里の愛称でもあった。
「本当に苦しんでいる人をしっかりと受け入れる」質の高い医療サービスを提供するには
次に福永病院長に質問したのは、大学病院が質の高い医療サービスを提供するために行っている工夫についてである。福永病院長が言及したのは、サービスは受け手の評価によって変わる点を踏まえ、毎年「患者調査」(アンケート)を実施していることである。これにより、患者からサービスに対するフィードバックを得て、翌年に成果が出ているかを確かめることができる。他にも、院内の風通しを向上させるために、通称「笑顔で声かけ運動」を実施し、医師をはじめ各スタッフが患者に挨拶・声かけを徹底して行っているという。
また、医療の質自体を高めるための修練も欠かせない。福永病院長は、「慶應は『特定機能病院』に指定されており、本当に苦しんでいる人を受け入れられるように、各医局でカンファレンスや勉強会を行っている」と語る。若い世代の医師が新しい情報を素早く収集していく一方、経験豊富な医師は知識の総量やそれを活かす能力に秀でている。福永病院長はこうした構造を鮮明にし、各世代の医師が互いに学び合う環境を「半学半教」の精神になぞらえた。
「今の時代こそ半学半教」総合大学としての慶應義塾
福永病院長が指摘したのは、今の世の中こそ半学半教の環境と一致していることである。昔は情報を満足に得る手段が限られていたが、現在は学生が最新の知識を調べるハードルが低い。一方で、知識を巧く活かす力は上の世代と比べて発展途上であり、各医局が開く会議内の構図と似通っている。
さらに、基礎医学と臨床医学も同じ関係に立っていると述べ、現在の慶應薬学部長である有田教授と留学時に共に学んだ経験について語った。そこで、著名な研究者だった有田教授と、「お互いの分からない部分を埋めるようにノウハウを熱心に共有した」と振り返った。
半学半教を実践するにあたり、総合大学である慶應義塾の利点は、様々な分野を学ぶ学生がいることである。福永病院長は、「学生レベルでも違う学部の人たちで話をするのが良いと思う」とアドバイスした。
「AIの役割は、既存のワークフローを改良すること」医療におけるAIの導入
続いて、基礎と臨床ではAIをどのように取り入れているかを質問した。
慶應は内閣府が打ち出したAIホスピタル事業に選ばれて以来、AIが推進されるようになったが、その真髄は最新の技術を開発するのではなく、既存のワークフローを短縮して病院を効率よく動かすことにある。現場では、入院時のサマリー(患者の情報をまとめたもの)や問診フォームの作成、ペーパーレス化などを進めている。他にも、患者用の自動運転車いすや薬品・検体などを院内で搬送するロボットを導入したほか、医師の勤怠管理に役立てる動きもあり、従来人の手で行ってきた作業を効率化することに焦点が当てられている。
基礎研究においても、人間が行えない精緻な作業に対してAIが導入されている。例えば、血液中にあるDNAなどの膨大なデータをAIでパターン化することで、今まで知り得なかった身体の中の動向を把握できるという。
福永病院長は、AIのメリットとして「時間が限られている中で、患者は早く帰ることができるし、働く側も自由な時間を研究や学生への教育に使えるようになる」と説明する。そのうえで、与えられた時間をどう扱うかは今後の課題だとした。
「研究の分野で、いかに医療の世界を良くしていくか」慶應の医療が見据える10年後・20年後の社会
最後に、慶應義塾大学病院が10年後・20年後の社会の姿をどのように予測しているかを質問した。臨床に携わる病院長は、「臨床は基礎研究によって与えられたものを使って治療を行うので、研究の分野でいかに医療の世界を良くしていくかが重要」と語った。医療の発展は、革新的な発見や治療法が研究されることで可能になる。慶應では、基礎医学と臨床医学はうまく融合しているため、その利点を活かして研究をすることで将来の日本にインパクトを与えるという。
そして、AIや計算科学の進歩により、今まで分かり得なかったことが解明されるようになってきたのも勢いに拍車をかけている。福永病院長は、「それらを病気の予防に活用することで、『病気をつくらない世界』をつくりたい」と目標を語った。
予防医療の究極の目的
慶應義塾大学病院初代病院長の北里柴三郎博士は、「人民に健康法を解いて身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐのが医道の基本である」と説き、慶應は、先駆けて予防医学に取り組んできた。そして現代の予防医療の究極のゴールは、「個人に最適化した医療」を提供することである。一人ひとりに合った医療を提供するにあたり、ウェアラブルデバイスなどで身体の情報を集めて、身体の異常を防ぐというモデルケースが想定されている。
また、予防医療センターが2023年に麻布台ヒルズに移転したことは記憶に新しい。福永病院長は、予防医療の研究には費用がかかる中で、「限られた人々の健康を重視するだけではなく、そこで培ったことを全国に広げていくためのスタート地点として、麻布台を評価している」と明かした。
慶應の医療から学べるもの
本記事では、普段知ることのできない大学病院の取り組みについて、なるべく多方面から切り込んだ。福澤や北里の教え以来一貫している理念は、基礎医学と臨床医学が結びついていることである。実社会に貢献するために学ぶことをやめず、100年来変革を起こしてきた歴史が信濃町に込められている。慶應の医療は、学びを社会に活かしながら、今日も医療の最前線を走っている。そして、福永病院長が話した内容は学生にとっても、自分がしている勉強の真価を発揮させるきっかけになるだろう。

(大久保凱皓)





