「発破!」

轟音(ごうおん)とともに頬をかすめた風の感触を、角谷敏雄さん(82)は今でも忘れられない。

函館から南西へ50キロ、津軽海峡にせり出す北海道福島町で漁師の家に生まれ、新制中学校を卒業すると同時に海に出た。イカが飛び跳ね、ホッケは海面で渦を巻いていた時代だ。

1954年、角谷さんの人生を大きく変える出来事が起きる。函館港内を航行する5隻の青函連絡船を転覆させた洞爺丸台風だ。1430名もの乗員・乗客が死亡し、タイタニック号沈没に次ぐ規模の海難事故として記録されている。

この事故をきっかけに持ち上がったのが、本州と北海道を海底トンネルで結ぶ前代未聞の計画だ。北洋出漁船の船長だった角谷さん含め、「実現できると信じていた人は誰もいなかった」。

一方で、漁業は衰退期を迎えていた。間もなくして青函トンネルの建設工事が始まり、作業員募集の立て看板を見て「小遣い稼ぎのつもりで」応募した。「まさか自分がトンネルを掘ることになるとは思ってもいなかった」という。

漁師仲間とともに配属されたのは、本坑に先駆けて地質調査のために掘削される先進導坑だった。しかし、常時気温35度、湿度90%超の過酷な労働環境と低賃金に耐えかね、一人、また一人と辞めていった。「角谷くん、君はどうなんだ」。上司に尋ねられ、何も答えられなかった。

迷いを見せる角谷さんに声をかけたのは、土木系統の総監督を務めていた中畑三義(みつよし)さんだった。「海の底さ行けば必ずあんたの出番が来る。俺は人を見る目はあるんだ」。トンネルマンとしては素人でも、漁師としての技量を買ってくれた上司の言葉に「ならやってやろう」と一念発起した。

「仕事終わりによく作業員仲間と呑んでは、ヘルメットを枕にして寝ていた」。飲み屋から現場に直行する日も(画像=本人提供)

角谷さんが担当したのは、岩盤に開けた穴にダイナマイトを差し込み、爆破をひたすら繰り返して掘り進む「切羽(きりは)」という作業だ。常に死の危険がつきまとう。それでも「命がけで掘らなきゃ貫けない」。現場で合言葉にしていた。

「命がけ」の意味を痛切に感じたのは、作業班が海底に到達した頃だった。現場で一番信頼を寄せていた中畑さんが作業中の事故で亡くなったのだ。その日を境に、トンネルを掘る「理由」が変わった。

「この人が愛したトンネルを、必ず貫いてみせる」

切羽の班長に抜擢されたのが、中畑さんの死から7年後。トンネルの北海道側で毎分推定80トンの異常出水が発生した際には、三日間徹夜で排水作業に当たった。「この仕事をこれからも愛せるように、何とか力を貸してください」。胸ポケットの中の遺影に語りかけた。出水は発生90時間後に止められ、トンネルは水没を免れた。

角谷班のメンバーと。手前中央で首にタオルを巻いている男性が角谷さん。1970年ごろ撮影(画像=本人提供)

先の見えない工事に、青函トンネルは夢物語に終わるのではないかという疑念さえ捨てきれずにいた。ところが、当時の田中角栄首相が日本列島改造論を打ち出したことで、潮目が変わった。「本州から北海道まで、金に糸目をつけずに掘れ」。首相の一言で予算が増額され、工事は徐々に軌道に乗り始めた。

「函館市民は依然としてトンネル建設に反対だった」と振り返る。青函トンネルの完成は、青函連絡船の廃止を意味するからだ。「連絡船に関わっている者を見殺しにするのか」「函館から若造を消すのか」。バッシングは続いた。「外部の空気とトンネルの空気との板挟みでずっと苦しかった。楽しさなんて一つもなかった」

掘削開始から19年後、「角谷班」は先進導坑の最後の発破を任された。中曽根康弘首相(当時)が電話回線を介して発破のスイッチを押すと、青森・竜飛から北海道・吉岡へ風が通り抜けた。世界最長の海底トンネルが貫通した瞬間だった。「ついにやったぞ」。トンネルを愛した人を思い浮かべ、拳を高く突き上げた。

先進導坑貫通の大仕事を終え、ガッツポーズ。「この表情はもう二度と作れないね」(画像=本人提供)

青函トンネルは、13日に開業30周年を迎える。一昨年には北海道新幹線が運行を開始し、日本列島が一本陸路で繋がったことの意義は年々増している。角谷さんは静かに口を開く。

「新幹線は事故なく、皆に喜ばれるような乗り物であってほしい。それが角谷敏雄と中畑さんの願いさ」

「日本のため」「北海道のため」などという大義名分では決して貫けなかった。誰かが誰かのために掘ったトンネル、それが青函トンネルだ。

 

(広瀬航太郎)