
戦争の記憶が風化しつつある今、80年前に何が起きたのか、戦争の悲惨さを深く知る機会が減っている。そんな中、広島出身の髙垣慶太さんは被ばく者と直接対話をする機会を提供したり、赤十字国際委員会(以下ICRC)の学生ユースとして平和イベントを企画したりするなど平和活動に尽力している。髙垣さんは戦争を拒否し続ける人達に目を向けて、戦争がおきたら、核が使われたらどうなるのか深く考えることが平和に繋がると話す。
●被ばく者に『人として』会って話して
髙垣慶太(23)さんは広島で生まれ育ち、現在は第五福竜丸展示館で、来館者に核兵器の悲惨さを伝えている。今年春早稲田大学を卒業し、大学では ICRC学生ボランティア、インターンの立場で、核軍縮に向けた活動に尽力した。核兵器と気候変動を考えるイベントが自身の中で最初の大きな仕事だったという。このイベントがきっかけで、これまで3回行われた核兵器禁止条約締約国会議にICRCユース代表として参加し、発言する機会もあった。
「活動をする中で、意識しているのは、興味のない人が大半の中で、どうやって関心を持ってもらうかということで、活動を始めて4、5年が経ち少しずつ変化も見えてきたが、今は何よりも被ばく者に、人として会ってほしい」と語る 加えて、現代社会における戦争や核兵器に対する意識について「戦争や核兵器は、今の日本では幸いにも遠い存在です。でも今、戦争がどれほど酷く、どれほど多くの苦しみと悲しみを生んだかという記憶が、社会の中で薄れつつある」と指摘した上で、自らの活動について「戦争や安全保障を語るとき、その『悲惨さ』が抜け落ちてしまう危うさがあります。核兵器を持つべきかという議論も、現実の痛みや被害の実相と切り離され、表面的な話になりがちです。戦争の悲惨さを本当に知っている人が、もうわずかになってしまった。だからこそ、私たちはその戦争の現実を知っていなければいけない。改めて、戦争とは何か、核兵器とは何かを知ろうとする努力が必要です。そして、そうした機会をつくることこそが、今の僕の活動の軸になっています。」と力強く語った。
●きっかけは二人の曾祖父の存在
活動を始めたきっかけは広島・長崎でそれぞれ原爆救護に携わった2人の曾祖父について、母親や祖父母から深く聞いたことだという。6歳の時に初めて資料館を訪れ、資料館で見たものが長い間トラウマになっていたが、曾祖父の体験を知ったことが、これまで遠ざけていたものと自分とを繋ぐ転機となった。
曾祖父の体験を聞き、高校に入り平和公園で原爆に関する展示を行うグループに入り、展示の案内、被爆体験集の変種に取り組んだ。また新聞部に所属し、平和問題担当として旧陸軍被服支廠の解体問題や出身高校の原爆被害を精力的に取材した。
●記憶が薄れるのは必至
多くの報道メディアが戦後80年を意識した特集を企画している。6月中旬には天皇皇后陛下が即位後初めて広島を訪問し、戦没者を慰霊したことも話題となった。
こうした注目に対し髙垣さんは「メディアや人達がどれだけ努力して、平和を意識するかが重要だと思います。記憶が薄れていくのは必至で、残っている映像や資料をどう活用するのか、当事者が居なくなる中でどんな代替の方法をみつけるのかが大切だと思っています」と強く語る。

●軍縮が理想から現実へ
「望む未来はやっぱり『軍縮が良い』という時代にまた戻ることです。多国間主義だった昔から、今は多くの国が軍事力を拡大していて自国の利益が第一になってしまっています」と髙垣さんは指摘する。
軍事力が戦争の抑止力となると語られるが、軍拡競争の先にあるものは平和ではない。AIやドローンといった技術の進歩によって、ひとつの外交ミスがかつてないほどの規模の破壊をもたらす時代に突入している。
「『コスパ』や『タイパ』といった効率性が求められ、『正しそうなこと』を言う人の考えに簡単に乗っかってしまう風潮があるように感じます。日々見聞きする情報や主張を吟味し、必要な時は批判できる能力と実践が大切であって、何か起きた時に私たちが考えて行動できるかが、そうした力養うことが、まず僕たちにできる成熟した社会を形作る取り組みであると考えます」
(宮野眞陽)