
慶應義塾は2023年に建学から165年を迎えた。その個性的な歴史の礎をなした第一の立役者に、義塾を興した福澤諭吉の存在が挙げられる。一方、福澤諭吉本人には「前の一万円札の顔」「慶應を建てた人」というイメージが強く、塾内でも意外と本人の具体的な事績は知られていない。この企画では福澤諭吉の歴史を紹介していきたい。本人の言動にはどのような意義や事情があるのか、福澤諭吉の意外な一面に新たな発見が見えてくると信じ、歴史好きやそうでない人にも「面白い」と感じていただくことが目標である。第1回目のインタビューでは、福澤研究センター・都倉武之教授に福澤諭吉の人間味あふれる歴史について聞いた。
「福澤諭吉が慶應義塾を設立した時点では、社会にインパクトはなかった」
慶應義塾設立が日本社会に与えた影響
初めに慶應義塾の設立に関する影響を都倉教授に聞いた。義塾の建学は福澤諭吉と切っても切れない出来事だ。意外にも「1858年の創立当初の福澤の塾には社会的なインパクトは特段なかった」と都倉教授は語る。蘭学に励んでいた福澤は、自分の勉強の合間にレクチャーする感覚で塾を開いていたにすぎず、歴史に名を残すような存在ではなかった。しかし慶應義塾の画期となるのは、福澤が幕末に3回海外に渡り、日本人の意識改革とその手段として「教育」の必要性を実感したことである。一般的に戦前の日本における私立学校の地位はきわめて低く、多くは法曹職のための予備校的な学校が多かったが、福澤は広く人間力を養うための教育(リベラルアーツと称される)を行う学校として慶應義塾を成長させていった。
その慶應義塾の社会的意義を俯瞰すると、東京帝国大学など『官』の学校への対抗という面が大きい。『官』の言うことのみに追従しているだけの社会は不健全な状態であるとし、民間の存在である私立と国立の拮抗を福澤は理想としていた。慶應義塾は、政府勢力の『官』一色主義に対抗する存在だったため、都倉教授は「慶應があること自体が、政府にとっては煙たかった」と当時の明治政府の心境を表現した。
「北里柴三郎の晩年は福澤諭吉なくして成り立たなかった」
福澤諭吉と北里柴三郎の交流
次に「福澤諭吉と初代医学部長である北里柴三郎の出会いと交流」という、普段表に出にくいエピソードを都倉教授に聞いた。それぞれ旧一万円札と新千円札を飾る人物の生涯がどのようにして結びついたのか、始まりは明治25年に遡る。
大坂適塾での蘭学修行時代からの福澤の親友・長与専斎(内務省衛生局局長)が局員だった北里を連れて福澤に相談に来た。北里は今の東京大学医学部の出で、ドイツ留学中に破傷風菌を取り出す技術を発見し、毒素からワクチンを注射する治療法を開発した研究者である。北里はドイツでツベルクリンの創製や伝染病研究で功績を挙げた「近代細菌学の祖」ことコッホに師事していた。しかし、北里は、自分の恩師が書いた、脚気は伝染病であるとする論文に反論したことで、東大・文部省・政府高官の反感を買い、干される形となり、日本で全く研究ができない状況に陥っていた。
福澤諭吉が北里柴三郎に行った支援とは
福澤はその時、芝公園に研究所を建ててそれを北里に土地を提供した。これが「私立伝染病研究所」なのである。その後、私立伝染病研究所が内務省衛生局に寄付されることになると、福澤は北里に「役所の研究所になるのは良いが、政府の気がいつ変わるか知れないから金を貯めておけ」と忠告した。実際に福澤は、「養生園」と呼ばれる病院(結核の治療を専門)を自身が持つ土地に建て、これも追加で北里に提供して、その収益を研究所の資金として貯財させた。
福澤の先見の明による忠告は、その没後に現実となる。大正3年。内務省管轄となっていた私立伝染病研究所は北里への相談なくして文部省に移管された。それは、かつて北里が書いた論文を理由に彼を冷遇していた東京帝国大学の下部組織に研究所が入ることを意味する。北里は所長を辞任し、福澤の忠告に基づいて溜めていた資金をもって北里研究所を新設する。『官』の横暴による、世界的に有望な学者の失脚を憂いた福澤諭吉の一連の支援は、間接的に日本医学を大きく開花させることにつながった。
また、「北里は福澤を大切にしていた」と都倉教授は語った。「コッホとともに、福澤を研究所内の神社に祀ろうとした」そうである。そして、慶應医学部設立への協力を求められた際には、スタッフを連れて参画し、無給で初代医学部長を務めた。
「慶医は東医の対比を行く」
四谷に医学部を設立した経緯
続いて、大正6年。慶應義塾が医学部を設立した経緯を都倉教授に聞いた。実は慶應義塾が医学教育をおこなったことが、これ以前にもあったのだという。それは明治6年から7年間で、英語で西洋の学問を学ぶための随一の私学だった慶應は、医学も英語で学ぶことができるよう「慶應義塾医学所」を開設した。しかし、日本ではドイツ医学が主流になり、ドイツ語を学ぶ必要が生じたことや資金的な困難もあり、短命で終わってしまった。この原点の歴史があったので、慶應では医学教育は悲願であり。私立として初めて設置された大学医学部となったのが慶應医学部なのだと都倉教授は解説した。
「『官』の在り方に意義を唱える病院づくり」
慶應医学部(以下、「慶医」)の理念を質問すると、再び『官』と『民』の二項対立が露になった。現代に生きる我々が聞くと衝撃的だが、「慶医は帝大学部(帝医)にならないようにしていた」と都倉教授は語った。システム面では、教授のポストが各科に1つしかなく、他の科との連携に消極的な講座制で動いていた帝医に対し、慶医は風通しを良くすることを設立時に図った。研究部門では異なる科と横の連携を行うことを重視したほか、病院(臨床)と研究の結びつきを重視することで、オープンで最先端の技術を提供する病院を目指した。施設にも開放感を取り入れるために、庭園やひらがなの多い平易なパンフレットを備えた。帝医と慶医とで全く反対の構図のように思われるが、これは帝医が母校である北里の方針が色濃く反映されている。
実務の面でも、かつての帝医は『官』の側に立つ機関であるために慶医とは何かと対比されることが多い。時代の変遷を得て、戦前のような確執はないがその違いを見ていくと『官』と『民』のライバル関係にたどり着く。
都倉教授の指摘「学問のすすめは格差を助長する本だったのか」
福澤諭吉が『学問のすすめ』を通して伝えたかったこと
最後に、福澤諭吉の著書・『学問のすすめ』について紹介したい。今や福澤諭吉と言えば『学問のすすめ』が思い浮かぶほど、本書の発刊は慶應義塾の設立と並んで代表的事績に数えられる。そこで、都倉教授に本書を通して福澤が伝えたかったことを歴史的背景とともに聞いた。
一般的に『学問のすすめ』は教育的著書であるが、都倉教授は「今はサラリーマンのビジネス書的に読まれている」とその役割が変化していることを語った。確かに、歴史上の人物の著書が現代の本屋では啓発・ビジネス書として並ぶ光景は見慣れている。そこで都倉教授が指摘したポイントは、本書が実力偏重主義の格差社会を助長しているという誤解である。一方の福澤は、格差を助長するのではなく学問を不要と考えていた身分の低い人々に向けて本書を書いていた。現代人には難解に思われるが、本書の文章は当時の知識人にはむしろ易しすぎるレベルと評されていた。また、江戸から明治に移行するにあたり士農工商の身分が廃止された時期に出版されたことが本書の理解の手助けとなる。身分がなくなったから、学べば勝ちと主張するのが福澤にとって真のポイントだった。むしろ今まで格差のしわ寄せを被ってきた人々に「努力すれば可能性が開ける時代になった」と学びの価値を説いている内容である。
人間が生まれ持つ責務と自由
『学問』のすすめを読んでいくと、「分限」という概念が登場する。この言葉は身分制が存在したころに、人々の権利を社会的立場にもとづいて制限するための便法だった。それが本書では一変して、「人間が果たすべき責務」という意味で表現されている。福澤は、人間は自由に生きるべきであって、『官』に服従するのは人間の分限に反すると考えていた。都倉教授は「社会で自分が望むことを果たして良い。そのスタートが学問だと福澤は捉えていた」と語った。
『学問のすすめ』が巻き起こした学問ブーム
本書の主張が奏功し、庶民や下層階級に位置していた人々の間に学問ブームが巻き起こった。都倉教授が語る「部数は福沢が適当な計算で言っているから正確な指標ではない」というまさかの事実には取材陣も思わず笑いがこぼれてしまったが、『官』への対抗や学びを社会に活かす精神が実社会で革新的に受け止められていたことが分かる。例えば、千葉県の成田では明治維新後に長沼事件と呼ばれるもめ事が生じた。長年、長沼村の住民が生活の都合上独占を許されていた長沼という沼の所有権を、近隣住民に買収された役人がはく奪した事件である。『学問のすすめ』を読んだ住民が権利回復の運動をおこして解決に導いたケースである。この事件の知名度は低いが、福澤本人も直接支援を行ったことで知られている。
福澤のような先人の思想・理想を完全に理解することは難しい。しかし、その価値観を学ぶにあたって『官』と『民』というテーマを捉えることが出来る。そして、なぜ福澤諭吉が一万円札の肖像画に選ばれたかが見えてくる。
都倉教授のご来歴
都倉教授は福澤研究センター教授であり、福澤諭吉や慶應義塾を題材とした著書出版や講演を多数行っている。日吉では「近代日本と慶應義塾」の授業を開講している。都倉教授はこの分野の専攻を行ったきっかけに、「幼少期から自分のルーツや環境を考える機会が多く、そんななか慶應高校に入学して豊かな歴史を知った」と語った。
(大久保 凱皓)