名作探訪で始めて紹介する女性作家となる、小川洋子の「妊娠カレンダー」。芥川賞受賞作品だ。
妊娠を控えた姉と妹の〈わたし〉。妊娠という現象に心身共に翻弄される姉を観察しながら、〈わたし〉の意識はその体内で黙々と染色体増殖を繰り返す胎児へと向かう。染色体を破壊すると知りながら、薬品にまみれたグレープフルーツジャムを作り続ける〈わたし〉。それを食べ続ける姉。全体に生モノの粘つきを感じながらも、どこか透明感漂う作品だ。
生モノの粘つき、というのは食事や料理の描写が多いことからくるものだろう。例えば、
〈クラッカーを食べた時、ほんの短い間彼女の舌が見えた。弱々しい身なりとは不釣合いの、鮮やかな赤い舌だった。表面のつぶだちの上で照明が弾けているように、暗い口の中でもくっきりと見えた。舌はしなやかに、ホイップクリームの白を包み込んでいった。〉
さらに別の箇所では、
〈「グラタンのホワイトソースって、内蔵の消化液みたいだと思わない?」(中略)「マカロニの形がまた妙なのよ。口の中であの空洞がぷつ、ぷつ、って切れる時、わたしは今、消化管を食べてるんだなあという気持ちになるの。胆汁とか膵液とかが流れる、ぬるぬるした管よ」〉
他方で、〈わたし〉が胎児をどうしても幼虫のような染色体でしかイメージできないことや、
〈「今頃胎児はねえ、まぶたが上下に分かれて鼻の穴が貫通している時期よ。男子なら腹膣内にあった性器が下降してくるの」、「わたしの中から出てきたら、それはもう否応無しにわたしの子供になってしまうの。選ぶ自由なんてないのよ。顔半分が赤痣でも、指が全部くっついていても、脳味噌がなくても、シャム双生児でも……」〉
という姉の台詞からは、醒め過ぎた視線とある種の無機質さ、非情さが見られる。そこに生の温さは感じられない。
妊娠とは本来、命のダイナミズムが最大限に顕れる現象のはずだ。
しかし、この作品にあるのは病院の白ペンキの匂いやステンレスの乾いたキッチン、初夏の陽を受けて蒼白く光る庭の緑といった、およそ生々しさから掛け離れたモノばかり。このギャップが作品に不気味さをもたらし、独特の透明感もここに端を発するのだろう。
90年代以降、女性作家の活躍は目覚しい。安易な単純化は是とするところではないが、彼女たちの作品では「身体への違和感・こだわり」が多く描かれる。
一個人の肉体・身体性をめぐる作品が増えてくるのも時代の表れなのかもしれない。そう考えれば、08年に川上未映子が『乳と卵』を発表するのは実に自然な流れである。
(古谷孝徳)