《記者が見つめた慶應》学生運動に揺れた60年代末 キャンパスがバリケードで閉鎖

記者が見つめた慶應

創刊号のトップ記事(1969年4月)。写真説明文には「校舎だけは新しくなってゆく。(略)校舎のツチ音は本当に塾の伝統の響きだろうか」。その問題提起は現在でも通用するものではないだろうか。

―当時の慶應の様子は

自分が慶應に在籍していた1969年は、学生運動がちょうど真っ盛りの時代でした。今となっては到底イメージできる状況ではありませんが、実際にキャンパスがバリケード閉鎖されてしまうこともありました。このような学生運動は慶大だけでなく東大・明大を筆頭に全国的に勃発していました。その中でも慶應はおとなしく控えめな方で、大学そのものの治世が破綻していた訳ではなく、授業がなくなることも基本ありませんでした。

よく勘違いされますが、当時の約8割はノンポリ(政治運動に関心がなく学生運動に参加しなかった人たちのこと)で、学生運動に実際に参加しているのは一部集団だけだったと記憶しています。多くのノンポリは、慶應に対する不満というよりむしろ、学生運動の急進的なセクトの思想に対する違和感を持っていました。

そのような状況の中、中立を保った新聞会としてOBや評議員の支援を受けて、塾生新聞は発足しました。塾生新聞は、学生運動が大学改革を訴えるも具体的な方針がないことから、大学のモデルを追求する調査を行なっていました。

無期限バリケードストライキが日吉で可決された。その後、バリケードが築かれた(1969年7月・5号)。

―当時の慶應生の風俗は

印象的だったのは、アンパン帽を塾高出身者がアレンジして、当時の慶應の学ランと併せて着ていたことです。そのスタイルは内部生がよく着ていて、内部生は慶應独特の文化を引き継いでいる感じがしました。

「慶應ブランド」というようなものは存在していて、裕福さを感じさせるエピソードもたくさんありました。車で通学する人も一定数存在していて、三田祭で開催されたラリーでは高級外車で参加する人さえいました。

また、塾生新聞はこのころ、三田祭で慶應の女子学生を選出しハワイ大学に塾長のメッセージを届けてもらうという「ミス親善使節」というイベントを企画しました。結果的にこのイベントは1年で終わってしまいましたが、後の「ミス慶應」の先駆けとなりました。

(71商・卒 聞き手=浅川力哉)

 

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この特集の記事:

《特集》塾生新聞創刊50周年記念 記者が見つめた慶應 特設ページ

【記者の証言】

《記者が見つめた慶應》学生運動に揺れた60年代末 キャンパスがバリケードで閉鎖(当記事)

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