《東京語る。》無意識に染み込む「東京」と異国の音楽 音楽家・細野晴臣さん

東京を語る。

東京から狭山へ

―ソロのファーストアルバムを出す際に、細野さんは埼玉県の狭山にあったアメリカ村に引っ越しますが、何か理由はあったのですか。

時の流れですね。20代から音楽をやっていて、まだ実家にいたわけです。でもやっぱり独立したくてしょうがなかった。僕の就職先というのはバンドでした。

ある日バンド仲間の伝手ですごく安い一軒家があるというので、それはどこだと聞いたら埼玉県の狭山というところだった。安さにとても惹かれて行ってみたらまさにカントリーでした。アメリカでもバック・トゥー・ザ・カントリーという田舎への回帰運動があったりしてたまたま同調しちゃったけれど、家賃とか広さとか、そういった現実的な意味が強かったですね。

当時、ジョンソン基地というのが自衛隊基地に代わって、米兵達が帰国することになったので、家が空くわけです。それを狭山市が住宅として貸し出すという方針にしたんでしょう。山裾の窪地にアメリカンスタイルの集落があって、空き家だらけだったんです。少し綺麗にしてペンキを塗って貸し出したんですね。当時は家賃2万3千円だったかな。東京の半額以下でした。

―ずっと東京に育ってきた細野さんにとって、狭山での一人暮らしで大変な思いはしませんでしたか。

カントリーミュージックを聴いていたし、好きなアメリカのシンガーソングライターはみんなカントリーに住んでいた。ウッドストックもカントリーだし。ドロップアウトしたヒッピーたちがコミュニティを作ったり……。全く同じ事をしていたんです。だから違和感というのは全くないわけです。逆にカントリー・ミュージックが似合う場所に住めて嬉しかったです。ずっとカントリーを聴いていたし、周りもみんなヒッピーみたいな連中ですから、コミュニティ気取りですよ。

―なぜ狭山に住み続けることなく、その後東京の落合に移り住んだのですか。

結婚することになって数年後に子供が生まれたことがきっかけです。出産のために奥さんの実家の落合に引っ越したんです。それがなければずっと住んでいたと思うんですけど。全部がその場限りというか、タイミングばっかりで(笑)。

―東京から少し離れた間の変化を感じましたか。

今ほど、社会の情報というのは入ってこないんですよ。インターネットもないし、のんびりした時代といえばのんびりしていました。じわじわ変わっているんでしょうけど、びっくりするような変化はないわけです。大きく変わったのはその前の1964年のオリンピックの時くらいで、その後はずっと変わらなかったですね。80年代以降になってまた変わっていくんですけど、70年代の景色はそんなに変わらなかった。だからあまり東京がどうなってるんだろうとか気にならなかったです。まあ音楽三昧だったんで、ボーッと生きてたんでしょうかね。だから学生運動の余波など、不穏な世相でしたがそれほど自分には関係なかったです。今はコロナウイルスのニュースばっかり見ていますけど。

食べ物も音楽も、食べなれたもの、聴きなれたものを

―細野さんは、転々とあらゆるところを移り住んでいるのですか。

引っ越しばっかりしてますね。定住派じゃなくて遊牧民みたいな傾向が強いんでしょうか。色んな所に住んでみたい。東京のあちこちですけどね、外国に住もうとはあまり思ってないですけど。

―なぜ外国に住まないのですか。

やっぱり日本の風土がなじんでるんですよ、水とか土とか。一番大事なのは食べ物ですね。近所に蕎麦屋があるとか。僕の標語が「チャーハン・焼きそば・ハンバーグ」というのがあって、それがあるところだったらどこでも住めます。

―1970年代後半には「トロピカル三部作」(『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』『はらいそ』)と呼ばれる作品を出していますが、影響を受けた音楽のルーツの一つである中南米に実際に行かれましたか。

全然行かないです。情報は、ラジオとレコードだけですね。情報は少ないけど、いつの時代にもマニアというのが必ずいますから、レコード屋さんに行くと中南米音楽というのが必ず置いてありました。僕より上の世代のおじさん達はみんな中南米音楽好きですよね。ラジオやレコード以外に何かあるとしたら音楽雑誌かな。『ミュージックマガジン』の中村とうようさんの影響も大きかったです。

―それらのレコードを聴いて、自分なりに解釈をするのですか。

解釈というより吸収する一方ですね。吸収することで精一杯ですよ。それを吟味して何とかって、そんな暇がないんですよ。自分のソロを作るときにやっとどうしようかなと思うわけです。吸収したことの3割ぐらい出れば良い方。いまだにインプットが多いわけです。できれば作りたくないくらい、とにかく聴くのが好きなんで、根っからのリスナーなんです。

―その頃の音楽を「ソイソース・ミュージック」と表現されていますが、最後の醤油の一滴は何ですか。

こじつけで屁理屈。やっぱり日本人でなぜ中南米音楽っぽいことをやるのかというときに理屈をつけるんですよ。プエルトリコあたりの音楽はサルサと言ってソースのことですよね。ニューオリンズはガンボという料理、沖縄の喜納昌吉さんがやっていたのはチャンプルーズっていうバンドで、チャンプルっていう料理からきている。そういうことをヒントに自分の音楽にも名前があっていいと思って、ソイソースとかチャンキー(ちゃんこ鍋)とか、屁理屈を付けたということですね。

音楽の仕方というのは調理に近いんですよ。いろんな素材があって、伝統的な方法もあるし、それに手を加えたり自分の味をつけたり自由なわけで。その味に例えているということです。料理って大体がいろんな国の影響からできているわけですから。和食でさえ何かしら影響を受けているわけで。

―食べ物を通してそういう地域的なものを感じていることが多いのですか。

動物って食べ慣れたものを食べ続けるんですよね。訳のわかんないものを食べると、何が起こるかわかんないから用心深いでしょ。多分僕もそうなんでしょう。珍しいものを食べてみたいとは思わないけど、だんだんなじんでいくということはある。僕の若い頃には東京にエスニック料理なんてないんですよ。カレーは家庭か蕎麦屋で食べるものでしたが、本場のインドカレーが広まるとだんだんなじんでくる。つまり味覚も音感も時とともに感覚の領域が広がっていくんです。

―音楽も食べ物と同じように聴きなれたものを聴きたいと思うのですか。

音楽だって同じですね。基本的には、動物の好む香りや味、音っていうのがあるんですよ。でもそれだけだと飽きちゃうわけでしょ。たぶんあまりにもなじみのないものには感覚が届かないんです。少しどこかになじみを感じれば感覚を広げていくことできる。その感覚を広げる行為が多分アートなのかな。そうやって今では広い範囲のエスニックを食べるようになった。感覚が広がっていって未知のものへ少しずつ近づいていく。一気にはいけないということですね。

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