《東京語る。》無意識に染み込む「東京」と異国の音楽 音楽家・細野晴臣さん

東京を語る。

(写真=提供)

これまで、多岐にわたる音楽を世に出し続けてきた細野晴臣さんは、昨年デビュー50周年を迎えた。そんな細野さんは東京・白金出身。細野さんの人生遍歴を通して、東京のエッセンスは何かを見つける。

注:本記事の取材は、2020年2月17日に行われました。

(聞き手=山本啓太)

異国との接点はラジオ

―細野さんは、終戦間もない1947年に東京・白金にお生まれになったそうですが、幼少期の記憶にある東京の風景はありますか。

僕が生まれたのは病院ではなくて、お産婆さんに取り上げられたんです。そのお産婆さんがいるあたりが長屋になっていて、今も利庵というお蕎麦屋さんが長屋の面影を残しています。

よく「いい所にお住まいですね」と言われますけど、普通の街だったんですよ。商店街があって長屋っぽいものもあって、どこの街とも変わらない普通の街だった。当時は原っぱばっかりでしたね。僕の世代はベビーブームなんで、子供たちがいっぱいいるんですよ。原っぱで野球やったり……遊びが面白かったですね。凧揚げ、ビー玉、めんこなどもやっていた。本当にこの辺は昭和の風景でしたね。

―幼少期、音楽や映画などの情報はどのように得ていたのですか。

メディアといえばラジオですね。ラジオに目覚めたのは小学校の5年生くらいかな。その頃はソニーが初めてトランジスタラジオを発売したんですよ。僕の父親の世代はみんなそれを買ったんですね。野球や相撲を聴いたりするんでしょうけれど。

ラジオを聴き始めてから病み付きになって、とうとう「深夜放送族」になっちゃった。寝ながらイヤホン二つ差し込んで頭の真ん中に音楽が聞こえるという。

一番のポイントはやっぱりFEN(Far East Network 現在はAFNに改称)っていう放送局ですよね。当時はそれをかけて、アメリカ音楽のTOP20を聴いていたわけです。基地がある所はみんな大体そういう放送があったわけです。僕の仲間だと大瀧詠一は岩手の方に住んでいて、やっぱり三沢基地からFENを聴いていた。めんたいロックといわれる福岡の人たちは久留米の基地の放送を聞いていたんですね。だからFENがあるところにロックミュージシャンが湧いてきたんですね。

―異国との接点というのは基地だったんですか。

そういう時代でしたね。一番音楽がいっぱい鳴るのはFENだった。それも最新の、心が躍るような音楽ばっかりやっていたので、自然に影響されちゃったんです。民放局もなかなか音楽的な番組が多かったんで、それも聞いていました。

「さよならアメリカ さよならニッポン」 音楽的な統合失調症

―細野さんは1970年にバンド・はっぴいえんどを結成されました。はっぴいえんどは、日本と世界の文化の蓄積の上でどのように成り立っているのですか。

Far East Networkというくらいで、アメリカからの視点で日本は一番遠い東なんですよ。そういう文化の差異がだんだんわかってくるわけです。当時の日本の音楽シーンというのはやっぱり演歌的な歌謡曲とか民謡とかが活気付いていましたから、自分たちが聞いてたアメリカの音楽は少数派でした。

でも土壌はあって、50年代にビートニクが流行ってジャズが日本にいっぱい入ってきたんです。僕たちの上の世代が、割とカルチャー的な動きをしていました。ファッションでいえばマンボズボンを履いたり、あごひげを生やしたりと、「ビート族」といわれる人たちがいましたね。ロカビリーの前にジャズだったわけです。僕たちの世代はジャズはそんなに聴いてなくて、ロックから入っていったんです。そのうちプレスリーなどのロカビリー好きが増えてきて、芸能界も日劇ウエスタンカーニバルっていうのが始まって人気がある歌手も出てきた。今までの歌謡曲に対するロックカルチャーというのが出てきたんですね。アイドルがロカビリー歌手だったわけです。平尾昌晃、ミッキー・カーティス、小坂一也などは大人気でした。

僕もアメリカの音楽が好きだけど、自分たちは日本人だという意識はずっと持ってて、そこに違和感を抱えたままなんです。言ってみれば音楽的な統合失調症みたいな、最近そのことを強く感じますね。このまま洋楽のカヴァーをやっていていいんだろうかとか思うわけです。でも楽しくてやめられない。

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