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時代ごとに異なる、塾長の選出方法

塾長の選出方法は、時代によって異なる。2010年に出された坂西隆志氏の論文『学長選考制度と大学ガバナンス―3大学の比較―』では、塾長選出方法の歴史的変遷が詳細にまとめられている。

この論文では、塾長の選出方法を5つに分けている。

開塾当初の第1期(1858~1881年)で、生徒会長のような立ち位置だった塾長は、第2期(1881~1889年)になると、福澤諭吉などが務めた社頭に次ぐ、2番手的な性格を持つようになる。第2期は、義塾への出資者から成る、理事委員会が選出していた。しかし第3期(1889~1902年)に入ると、卒業生から成る評議員会が選出するように変更された。

福澤の死とともに第4期(1902~1946年)に入り、ガバナンスの強化が図られた。この時期に塾長中心の現在と同じような体制が定められた。選出方法は、評議員会が選出するという仕組みは変わらないものの、責任の所在を明確化するため、評議員会から教員を排除し卒業生のみで構成するように変更された。つまり、塾長が現在の立ち位置となった当初は、卒業生のみが経営陣を決めていた。

教職員が、塾長選考について参加するようになったのは終戦直後の第5期(1946年~)からだ。その背景を、坂西氏は3つ指摘している。

なぜ「塾長選挙」に「教職員」が参加するようになったのか

第一に、戦後の教職員の経営参画に対する機運の高まりだ。1946年の塾長選出の際、教職員から学長を兼任する塾長の選出に、学内の意思が反映されないのはおかしいとの声があがった。さらに塾生も塾長選出の民主化を求め学生大会を起こす騒ぎに発展した。評議員会はこの声を無視することができず、1946年『慶應義塾規約内規』で、塾長候補者を評議員会が推薦する委員会を設置し、そのメンバーに教職員が入ることになった。最終的に1950年、『塾長候補者銓衡委員会規則』が定められた。同時に、理事会や評議員会に教職員が入ることが決まり、教職員の経営参画は確立した。

第二に、戦争による甚大な被害などで困難な状態だった義塾を教職員が一体となって切り抜けるため、一種の議決機関である「第2次全塾協議会」が設置されたことだ。協議会は緊急策であったため1951年に解散している。しかし教職員の経営参画は、理事会と評議員会に教職員が入るという形で残された。

第三に、潮田江次塾長の学長辞任だ。潮田氏は、福沢諭吉の孫にあたる人物で、1947年から1956年まで塾長を務めた。就任当時、戦争で被災した多くの校舎を復旧させるため、1958年の慶應義塾創立100年という大きな節目で記念事業を行うことが計画され、準備を進める必要があった。

評議員会の評決で潮田氏は3期目の塾長を務めることとなったが、教職員の反発は大きかった。

大学運営に支障が出たため、当時の評議員会議長らが仲裁に入り、塾長と学長を分離する案が浮上した。そこで、『学長選任手続きについての大学5学部申し合わせ』が1955年に策定され、教職員による学長選挙が行われた。これにより1956年、潮田氏は原則、理事長と大学学長を兼ねている塾長の職務のうち、学長職を辞任し、代わりに学長として奥井復太郎氏が就任した。

しかしそれから間もなくして、潮田氏は理事長としての塾長も辞任した。そこで1956年、学内者によって『塾長候補者学内選挙規則』が定められ、慶應義塾で初めて教職員の投票による塾長選挙が行われた。塾長候補者銓衡委員会は、学内からの3名の推薦を受け、奥井氏を評議員会に推薦し、評議員会が承認した。
以後、教職員の投票が塾長改選の度に行われ、1964年に『塾長候補者推薦員会規則』が塾内申し合わせ事項として定められた。なお1964年以降、選出過程の大枠は変わっていないと、広報室は語る。

塾長の選出過程にある教職員投票をはじめとする教職員の経営参画は、戦後の混乱や民主化運動などによって実現した、という見方もできるとの見解を坂西氏は示す。

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