本連載「学費問題から—日本の大学と学びの現在」も第六回目となった。この連載は昨今日本の大学と学生を取り巻く学費についての一連の問題や論点について、さまざまな立場から向き合っていくことを目指す。今回は文部科学省の中央教育審議会の委員を務めている伊藤公平塾長にお話を聞いた。
—「義塾」と学費について
そもそも学納金はなぜ存在するのか。それは教育設備・内容をそろえ、教員・職員をそろえるため。実は慶大は日本ではじめて学費制度を導入したのですが、そのもともとの理由とは、意志のある人たちが自分たちで公共の役に立つ人物を目指す、という私立でありながらそのようなパブリックスク―ル(義塾)を設立することだったのです。
慶應義塾の建学の精神とは『居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり』であり、そのためにも、職業教育者を集めて教育体制を整備することが、そもそもの学納金の意義でした。
—学納金はいかに運用されるのでしょうか
学納金は教育目的に使われます。塾生の研究も教育の一部ですが、その他の研究には独立した予算があります。学納金は「授業料」や「設備費」など項目別で集めているため、目的ごとに運用しています。またこれとは別に国からわずかながら経常費補助金が下りてくる。学納金は皆さんが求める学びの場次第です。安ければ安いほど良いのですが、あまりにも少ないと、一クラス当たりの人数などが多くなってきてしまう。学納金の額については、おもにこのような財政運用の方法と教育の質などのバランスを考慮、かつ慶大として来てほしい学生が払える程度を考慮し、決定しています。
—スライド制について現時点での塾長の認識をお聞かせください
スライド制とは何をしているのかというと、物価と賃金の上昇に合わせて学納金を上げていくわけです。よって何か新しいことを始めるための値上げというより現状を維持するために導入しています。実際、教育への支出と、学納金+経常費補助金などの収入が赤字かトントンくらいになっています。光熱費も上がっていますし、ZOOM等の契約、学事システムの整備などは新しい試みでプラスの出費です。新しいことをしないにしても赤字かトントンです。なので、皆さんが求める最低限の環境を維持するためにスライド制というのが必要なのです。
加えて私たちはさらに新しいことを進めねばなりません。たとえばAIキャンパスの実現です。ただこのようなプロジェクトのために学納金をいきなり上げるわけにもいきません。学納金を上げたいわけではありませんが、赤字を出すわけにもいかないというので私たちは寄付集めに奔走するのです。
—現行のスライド制では一旦増額された学納金はたとえ物価・賃金が下がったとしても据え置きです。この点について、現行制度は正当だとお考えですか
ある意味、そこのところを活用して冷房設置等の施設整備やZOOM等の契約を行っています。将来への投資というよりは、その学納金を払ってくれた人たちが実感できるようなスケールでの整備を行っています。「将来のため」というと皆さん怒っちゃうでしょ?そこは結構気を付けています。それと、耐震はかなり力を入れています。耐震、防災は年々基準が上がっています。なかでも旧図書館の耐震化は、学納金をはじめとするさまざまな経費を使って実施した事業です。
—「最低限」と言いますが、私立が考える施設の最低限と国立のそれとはギャップがあるのでは
はっきり言ってお金の問題です。結局お金がないと建てられないし、直せない。これに尽きます。我々大学は国立も私立も非営利団体です。常に伸びていかないといけない。現状維持が難しい団体なのです。どういうことかというと、現状維持をしようとすると、世界の大学の発展に取り残されるということです。大学とは伸びていこうとして初めて現状維持ができるような団体なのです。
ですから、スライド制は最低限維持するための制度ですが、新しいこともしないといけない。塾生会議がウォーターサーバーを設置しましたが、塾生たちが「これをやりたい」と言ってきた場合、私は基本的に寄付を集めています。寄付を集めることも大きな仕事です。ゴールドマンサックスと連携した奨学金制度についてもそのような交渉の結果です。
—昨今の大学を取り巻く不況の中、文科省は組織改革、知の資産の価値化等の必要性を訴えています。慶大についてはどうでしょうか
もうすでに職員の数は対学生比でみてもカツカツです。国立との比較は詳しい数字を見なければいけませんが、いずれにせよ、今の職員の数でサービスを保てるかというのが大きなポイントになります。たとえば図書館の24時間制を考えたとき、それに対応する職員が必要になってくる。職員の数はあらゆるところに効いてきます。
また、知の資産の価値化について考えると、慶應義塾の特許収入は2年で約3倍になっています。研究者たちの発明をライセンス化すると収入は増えます。ただ、これに学部、研究領域間の差はありません。ですから理工学部や医学部の発明が多いからといっても学部ごとではなく、慶應義塾の収入となります。学部間の研究費のパイ取り合戦にはならないように仕組みを作っています。何度も言いますが、学費を中心とした経常費が黒字なら学納金を上げるのは良くないことです。しかし残念ながらそうなっていないのが実際なのです。大学は研究機関ですから、教育と研究のバランスは考えないといけない。ただ教えるだけの場ではないのです。大学として正しい教育をするには、教員一人ひとりの研究レベルが高くなければならない。教員も職員も増やしたい。しかし、その理想を実現するための学納金を考えると、400万円。非現実的な額です。
—塾長は過去に国立大学の学費値上げに言及された際、奨学金の活用を提言していましたが、いわゆるグレーゾーンの学生を切り捨てることになりませんか
完璧な答えはありません。しかし、専門家が議論を繰り広げているあいだに当事者の学生が取り残されてしまうことは避けなければなりません。私がずっと主張しているのはマイナンバーカードの活用です。マイナンバーカードを活用しつつ、申請型ではなく、プッシュ型の奨学金を設置するのです。国公立・私立関係なく、どこの大学に行っても必要な人が必要なだけのお金をもらえるようにすればよい。
そして卒業後にマイナンバーカードにより追跡して、余裕のある人から返済してもらえばよいし、余裕がなければ返済しなくてもよいのです。マイナンバーカード制度を活用して、弱者をしっかり救済する制度を作るというのが私の根本的な主張です。それができていないのが日本のデジタル改革の大問題です。たとえばスウェーデンやフィンランドではスピード違反の罰金が収入別で異なるようです。弱者を助けられる人が助けるような制度を作っていかなければならないというのが根本にあります。
日本は世界と比べたとき、平均的な人のレベルが高いのです。日本の大学も同様で、平均的に見た日本の大学は世界的にもレベルが高い。そうした中、日本には大学が800もあり、明らかに多い。私は国立大学に研究費などが特別につくことは当たり前だと思います。国立ですからね。ただその授業料をお金がない他の国民の税金で払うということには疑問を抱いています。大学生一人当たりにだいたい200万かかるわけですが、もし国立の学費が150万だとしても、その差額の50万は誰かが肩代わりしないといけない。国立大学の数は85校。国立の施設が改善されていくこと自体は素晴らしいことですが、その学費を他の人が払うべきなのでしょうか。
今の社会は国民の一人一人が税金という形で払っています。国立の学費を150万均一にして、あとはプッシュ型奨学金などでケアできれば少しはフェアな制度になります。そして国立・公立はそれに加えて行政から別途お金をもらえばよいし、私立はそれぞれ頑張ればよいのです。
—もし本当に平均的な基準で考えるならば、大学生の8割を占める私立学生に力を入れるということになります。しかし、それでは国立大学のセーフティーネットとしての側面を軽んじてしまうのでは
一番教育に関して力をいれるべきはボリュームゾーンにある大学群です。ただし、どのようにお金をつけるかというのが問題です。はたして国がそうやって国立より私立に金をかけてよいのか。もし国策でやるならば、国立大学に平均的な学力の学生をいれるような制度の方が良いでしょう。
セーフティーネットの件についても、私が主張しているのはより包括的な弱者救済の仕組みです。国立私立の枠を超えて、本当にお金を払えない人を助けられる制度を設計していくべきです。そのためのプッシュ型奨学金ですね。
—現状の大学の数は多いと言われていましたが、大学の数が減少すれば研究者のポストも減ってしまうのではないでしょうか
必ずしも大学の数と研究者の数は連動するわけではありません。究極的には国がどれだけ研究費をつけるか、学術予算をどれくらいつけるかにかかっています。国としてしっかり基礎研究にお金をかけることが大切なのです。今まで科研費は少しずつ伸びていましたが、異常な円安により結局減額に近い状況になってしまっています。これを少しでも伸ばしていけば、研究者のポストも増えていくのではないでしょうか。
今回のインタビューを通じて、塾長には慶大の運営から学術分野のこれからについて、さまざまなことを聞くことができた。そこで語られたのは苦学生に対する柔軟な制度設計の必要性と、シビアな資金不足の問題である。一般に学費問題を考えるうえで、苦学生に対する配慮や高等教育に対する公共性は強調されやすい。今回のインタビューは、そんな学費問題の議論をより充実させる格好の機会となった。
※プッシュ型奨学金とは…主に返済不要な「給付型奨学金」を指し、世帯年収などに基づいて自動的に支援が決定・支給される(プッシュされる)タイプの奨学金とされる。
(安藤叡)