企画

《塾員インタビュー》コロナ禍でも舞台は成長し続ける 宝塚歌劇団 小池修一郎氏

演劇を夢見た学生生活、今も生きる慶應魂

僕は、塾高(慶應義塾高校)から慶應生なので、慶應義塾からの影響をかなり受けています。

1970年、三島由紀夫が自決した年に高校生となった僕は、世の中が大きく動き、文化も変容して行くことを日に日に感じていました。塾高は、内部進学で大学に入学できるため、受験がなく、高校時代は本の読み放題。名画座に通って、映画を観漁り、はじまったばかりのFMラジオの深夜放送を明け方まで聴いていました。今ならラジオではなく、ネットになるんでしょうか?

このような興味・関心を抱いていたので、大学生になってからは何らかの形で、映画・演劇やラジオの実業に携わりたいと思いました。いろいろバイトを探しましたが、テレビのADなどは退学を覚悟で働かないとできないスケジュールでした。よって、比較的時間の自由の利くバイトしかせず、今で言うオタクの極致のような生活を送ったわけですが、当時得た知識は演出家になった今も役立っています。多分、慶應の福澤精神の極致のようなものだと思いますが、当時でも「他人に干渉しない」「独立独歩」という塾風はあったのだと思います。

私が慶大に入学した77年は、何と「教職員のストライキ」で、1年の前期は授業がありませんでした! 最初のガイダンスはあったのですが、それから一気にストライキに入ってしまって、学生たちは授業のない日々を過ごしていました。当時「教員が授業放棄してるんなら、授業料を返せ!」という声もありましたが、結局返還されませんでしたね…。

また、サークル活動は、すぐに演劇研究会に入ったのですが、当時流行った「不条理劇(世界における人間の在り方を不条理ととらえる劇)」をやりたい先輩が牛耳っていて、僕にとってはつまらないのなんの。興味ある方は50年代に翻訳されたイヨネスコの芝居とか、読んでみて下さい! フランス語原作の作品を、言葉の壁を越えて、面白く翻訳するのは相当難しい。私は、状況劇場の「情念の芝居」に魅せられていましたので、主に学外の劇団や早稲田のミュージカル研究会の人たちと交流していました。

思い出深いのは、2年の時に三田祭の実行委員になり、三田キャンパスに「状況劇場」の公演を招致したこと。上野の不忍池の音楽堂にて公演していた紅テント(あかテント)が、そのまんま無味乾燥な三田キャンパスに設営され、満員で公演した時は学生時代で唯一と言っていいほどの達成感を味わいました。当時は、中庭の大銀杏の下(04年に「三田演説館」にて講演した際、背後にATMができていたような気がします)に、机を出して、昼休みから夕方まで、三田祭の状況劇場の公演のチケットを売っていました。いろんな人が話し掛けてきてくれて、楽しかったですね。でも、当時の慶應には状況演劇の面白さを分かってくれる人がおらず、仕方なくいろんな大学の劇団に行ってチケットを売り歩きました。早稲田は劇団が20くらいあって、演劇のメッカという感じだったのでチケットもよく売れました。その時に知り合った人々とは、今も付き合いがあります。80年代からは、慶應にミュージカル劇団が二つもでき、宝塚歌劇団の演出部に、それらの出身者が続々と入団してきています。男子がたくさんいるダンスのサークルもあり、隔世の感あり。多分、7、8年後に生まれていたならば、「周りに演劇やミュージカル、ダンスが好きな学生が見当たらない!」という、当時私が感じたストレスや、孤独感は感じないで済んだでしょうね…。

学生時代は、世間的に見れば、いわゆる「慶應ボーイ」らしくない生活でしたし、付き合いや人脈もさほどありませんでした。そんな「落ちこぼれ慶應OB」でも、何とかなったのは、塾高から7年間の慶應生活で培った「オタク力」だと思います。なので「趣味を実益とすべく頑張る」というのは、ひとつの裏・慶應精神なのではないかと思います。学生時代は「早稲田の演劇に行っておけば良かった」と思ったこともありましたが、その後現場で会った人に、早稲田の演劇人は少なく(慶應はもっと少ないですが)、「オタク力」を磨くことができた慶應で良かったと思っています。

思うようにいかなかった20代、それが将来への財産となった

僕の場合は、大学を卒業したらニューヨーク大学の演劇科に留学するという夢を持っていました。オフ・オフ・ブロードウェイ(定員100名以下の小劇場などで行われる劇)で良いから、日本のアングラ劇(小劇場で行われた、前衛的な演劇)のように、若者たちの手作りの作品に携わりたいという思いがありました。「グリニッチ・ビレッジの青春」という映画の影響で、ニューヨークのグリニッチ・ビレッジで生活し、演出家になるのが夢だったのです。ですが、大学4年の夏休みにニューヨークに行った際、現地の日本人演劇エージェントから「日本で地盤を築いてから来ないと、後でつぶしが利かない」と脅しをかけられました。帰国後、英語を磨こうと英文科に学士入学することを決めた時にちょうど、宝塚歌劇団の演出家募集に合格しました。「舞台のミュージカル系の仕事で月給が貰える」こと、またその給料を貯金してニューヨーク行きの資金源にしようと入団しました。実際は貯金なんてできず、今日に至っています。

宝塚歌劇団に入ってからは、下働きばかりでした。究極のオタク生活を送っていた私は「効能書きばかりで、役に立たない奴」とレッテルを貼られ、泣かず飛ばず、誰にも相手にされない20代を過ごしました。その時は「やっぱりNYに行けば良かった」とずっと後悔していましたが、今振り返れば、この下積み時代は、後になって何十倍、何百倍もの「力」になって返ってきました。ただのオタクでしかなかった私に、強靭な精神力と判断力を培ってくれたのです。

何か「志」「求める夢」があるのなら、そこに至る艱難辛苦は、全て後で役に立つと思います。ですから、今、希望した就職ができなかった人も、その意志を持ち続けることができるなら、その間のプロセスは例え無駄な寄り道だと思えても、後でおつりのように返ってくると思います。

無論「食べて行くためにはこれをやるしかない」という理由で職業の選択がなされることもあるとは思うのですが、何らかの目標を持つこと、そして若いのだから、何十年かかけて達成するべき夢を持ち続けることが大切だと思います。月並みな人生論に聞こえるかも知れませんが、「夢を見続ける力」こそが、最も大切なのだと思います。逆に言えば、見続けるに値する夢を見出すことが必要だと言えます。自分が何をやりたいのか、何をやれば自分を生かせるのか? 20年ちょっとしか生きてきていないのだから、なかなか分からないと思うのですが、それでも、求めるものはありますよね? 「求めよ。さらば与えられん」というところでしょうか?

将来どうなるか、なんて誰にも解らないのだから、若い時こそ、貪欲に「求め」て良いと思います。私が大学生の時も就職難と言われていましたし、何度も就職氷河期は来ています。今ダメでも、いつどうなるか誰にも解らないのだから、ネガティブに考えず、「今に見ていろ、俺だって!」の心意気で、根気強く、目標に向かって努力し続けることが、最終的な決め手となると思います。

諦めず、粘り強く持ち続け、闘い続けられる「夢」を見つけて下さい。

 

新型コロナウイルス感染拡大の影響が続いても、届く舞台の力。いつか舞台に大勢の観客が集い、感動を共有できる「日常」が戻ってくることを願う。

【プロフィール】

小池修一郎(こいけ・しゅういちろう)

1977年慶大文学部卒。宝塚歌劇団演出家・特別顧問。「エリザベート」や「ロミオとジュリエット」、「スカーレットピンパーネル」など数々の著名なミュージカル作品を手掛ける。2021年1月2月には、自身が脚本、演出を務める「ポーの一族」の上演が梅田芸術劇場・東京国際フォーラムにて予定されている。URLはこちらから。

 

(加藤萌恵)

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