各界で走る塾員の活躍を写す「走り続ける『塾員』特集」。今回話を聞いたのは、石破茂衆議院議員(取材当時)。慶應義塾高校に入学し、慶大法学部卒業後、三井銀行への就職を経て議員の道に進んだ。学生時代の経験はどう生きたのか。なぜ議員の道に進んだのか。塾高への入学から振り返って語ってもらった。

 

塾高は日本で一番愉快で、一番好きな学校

 

――鳥取の中学校を卒業されて、慶應義塾高校に進学されていますが、上京のきっかけは何だったのでしょうか。

昭和47年に鳥取大学附属中学校を卒業して、塾高(慶應義塾高等学校)に進学しましたね。鳥取の進学校を経て東京大学を卒業した父は、どうやら自分と同じような経歴を歩ませたかったようなんです。ただ母親が、それに猛反対しましてね。「知事の子供が県立高校になんて行ったら、今よりもっとチヤホヤされてばかりになり、この子はダメになる」。そんな感じでした。

だから私学であれば、正直どこでも良かったんだと思うんですが、転機は昭和46年かな、中学3年の夏休みに、慶應ライト・ミュージック・ソサイェティっていうイカしたバンドが鳥取で公演をしたんです。それを見て、「ああ慶應ってかっこいいな」と思いましたね。

当初は、寮がある志木高(慶應義塾志木高等学校)に行こうと勉強していましたが、腕試しで塾高を受けたら受かってしまったので、そのまま日吉に進学することにしました。「格好良さそうで、ある程度難しそう」というようないい加減な選択ですよ。

 

――塾高時代の学内文化で印象に残っていることはありますか。

当時の塾高は1クラス50人で、それが18クラスありました。もうとにかく日本で一番ひどい学校なんじゃないかと思うくらいの放任。

特に体育会に入っている生徒なんかはほぼ放置で、私も体育会ゴルフ部に所属していて、日々練習ばっかり行って授業中はずっと寝ていたけど、怒られた記憶はない。ただ授業のレベル自体はとても高いから、その気になって受ければ楽しい。全てが自由な学校だから面白かったです。

今年の4月に律法会(慶大の法律系サークル)の新入生勧誘講演会に呼ばれた時、何十年ぶりかに日吉を歩いてみました。塾高は本当に50年前と何も変わっていなかったですね。関係者に話を聞くと、今はとにかくみんな真面目になり、勉強するようになったらしいです。まあ私にとっては日本で一番愉快で、一番好きな学校ですよ。

 

勉強と遊びに没頭した学生時代

 

――法学部法律学科に進学された決め手は何だったのでしょうか。

当時、文系は経済学部が花形でした。物好きが文学部で、一番できない人が法学部政治学科に行くような時代でしたね。私は成績だけでいえば経済学部に行くことはできたんだけど、如何せん数字をみると頭が痛くなる。「これでは経済学部に行ってもどうしようもないな」なんて悩んでいました。そのまま夏休みになって、鳥取に帰省して、たまたま近くの本屋を訪れてパラパラ雑誌を読んでいたら、司法試験の受験雑誌が目に入って。試しに刑法の事例問題を読んでみて、「なんて面白い学問なんだ」と思ったんですよ。あの時に、鳥取の本屋で法学セミナー(法律系雑誌)を読んでいなかったら、違う学部に進んでいたかもしれません。

 

――そこから法律の大会で一位を獲得するのですから、すごいですね。

ああ、大学2年の時かな。全日本学生法律討論会という色んな大学が参加する弁論大会に出ましてね。私が参加したときのテーマがたまたま刑法だった。刑法の教授が、2年生の成績優秀者を何人か呼んで学内予選をやったんです。確か、公文書偽造の事例問題だったと思います。その事例は実際あった事件で、当時の最高裁は公文書偽造にあたるとして有罪判決を下したものだったんですが、私は捻くれ者なので、「こんなもの公文書偽造にあたるはずがない」と無罪にする議論を展開したら、そのまま学内予選で優勝しちゃった。そうしたら教授に「審査員には最高裁の判事もいるんだ。最高裁判決と逆のことを言ったら、良い点数は多分つけてもらえない。慶應義塾の名誉がかかっているんだから、結論は逆にしなさい」と言われましてね。そこで、大会当日は論法を逆転させて、まあペラペラ喋っていたらなぜか優勝しちゃった(笑)。

 

――学生時代は律法会に入られていたんですね。

当時は女子学生が1クラスに4人くらいしかいなかった。そのうち3人が律法会に行くというもんだから、「女の子がいるなら律法会に」という不純な動機で入りました。それでもちゃんと勉強する気はありました。1年の後半から日吉の責任者、2年の後半から三田の責任者になり、3年の後半は総責任者とかやっていたかな。結構、大学4年間は律法会人生みたいな感じでしたね。

 

――三田祭など学内カルチャーで印象に残っていることはありますか。

実は三田祭の時期は律法会の秋合宿に行っていました。律法会は春夏の合宿はたくさん勉強をするんだけど、秋合宿は千葉とかの海岸で遊ぶんです。なので、あまり三田祭には縁がないですね。

でも早慶戦には行きましたよ。ただ、今思えば馬鹿みたいなことをやっていたな。早慶戦の前日は毎年、律法会のメンバーと一緒に神宮球場でビニールシートを敷いて、そこに一升瓶を置いて徹夜で飲んでいたね。翌朝に整理券をもらって試合を見るんだけど、爆睡ですよ。

あと勝とうが負けようが日比谷公園に行って、公園の池に飛び込むという恒例の儀式をやっていた。ただ4年の秋だけは飛び込まなかった。なぜかというと、もう三井銀行(現・三井住友銀行)に内定をもらっていて。日比谷公園の池って三井銀行の目の前にあるんだよね。「池に飛び込んでいるのがバレたら内定取り消しになるな」と思いました。春はそれほど寒くないんだけど、10月とか秋になると寒いんだよね(笑)。そういう馬鹿なことをやっていたのは今でも覚えていますよ。

 

――当時から塾生新聞などの新聞団体はご存知でしたか。

当時はネットなどなく、みんな紙媒体で情報を得ていたから、塾生新聞を読んでいる人は結構いましたね。サークル紹介や美人女子大生シリーズとか。昭和50年代の慶應ガールはなかなか洒落ていたから、そういうのを取り上げていた時はよく読んでいました。でも政治色はなかったよね。

 

――法律学以外で興味のあった学問はありましたか。

教養課程にいたときは面白い授業がいっぱいありました。西岡教授の人文地理は人気の講座でした。世界のトイレットペーパーを研究している面白い先生で。生物とかも面白かったね。高校まではフナとかカエルの解剖くらいしかしなかったけど、大学ではネズミの解剖があって興味深かったのを覚えています。あとは美術とかね。慶應は日吉の一般教養科目にも面白い先生が結構いましたね。

 

銀行員から政治家へ

 

――新卒で三井銀行に入行されたとのことですが、当時から明確な将来像やキャリアビジョンはありましたか。

全くなかった。当時の司法試験はすごく難しいと言われていたからあまり受ける気にもならなかったし、教員として大学に残ることも考えたけど、どうやらそれも難しそう。となると、残りは就職。当時はJRが国鉄で、鉄道の仕事ができたら楽しいだろうなと思ったんですが、うちの父親が運輸大臣をやっていて、国鉄に行きたいと言ったら「あそこはもうすぐ潰れることになっているから行かんほうがいい」と言われました(笑)。

「そうか、じゃあ鉄道がダメなら飛行機だ」と思って全日空に行こうかと考えたんですが、これまた当時ロッキード事件があって、うちの父は田中角栄先生と仲が良かったものだから、「角栄先生にご迷惑をかけた会社に入るのか馬鹿者」と言われてしまった。「じゃあ、どこならいいんですか」と言い返したら、父に「銀行がいい」と言われたんですよ。「銀行というのはな、その信用性で大会社の社長から年金暮らしのお年寄りまで色んな人に会える。世の中を知ることができる素晴らしい仕事なんだ」とよく分からないことを言われて、それで三井銀行を受けたら受かったというのが経緯ですね。

 

――なるほど。そこから政界に進んだ背景は何だったのでしょうか。

銀行員を辞める気は毛頭ありませんでした。銀行は本当に面白い仕事でしたよ。人生で一番楽しかったと思うのは、新入社員時代だね。昭和のサラリーマンというのは、会社に行くこと自体がそれなりに楽しかったんですよ。ところが入社3年目に父親が亡くなりました。当時私は24歳。参議院議員になるには30歳、衆議院議員になるには25歳という基準が決まっているでしょう。「良かった良かった、後継にならなくてすむ」なんて思っていました。

父の葬儀は鳥取で県民葬となり、田中角栄先生も出席してくださいました。その後、病床の父との約束だからと、田中先生が葬儀委員長を務めて東京でもう一度盛大な葬式を執り行ってくださったんです。それが終わって、角栄先生の所にお礼に行って、「ありがとうございます。父も大変喜んでおります」とか挨拶をしたら「まあまあ、そんなことはいいから。それより今すぐ名刺を作って、葬式に来てくれた人達を全員まわって選挙前の挨拶をしなさい」と言われました。「はあ、私はまだ24ですが」と返すと「昭和58年には衆参同時選挙がある。そこでお前は衆議院議員になるんだ!」と言われましてね。なんのこっちゃ分からないわけですが、まあこのような感じでフラフラと国会議員になったんです(笑)。

 

学生じゃないとできない経験を

 

――破天荒なストーリーですね(笑)。政治家として長年ご活躍されていますが、学生時代の経験が今に活きていると感じることはありますか。

やっぱり一生懸命勉強はしましたね。当時はこんなものを読んでいましたよ。

当時使用していた刑法学や民法学の教科書を見せていただいた

我々は立法府で法律を作るのが仕事だから、昔に勉強したことは今も役に立ちますね。

 

――今の学生(慶大生)にも伝えたいですか。

やっぱり慶應に入ったからにはね。正直、普通に生活していれば卒業できる学校だと思います。でも、それでは慶應義塾に行った意味がない。勉強内容について聞いたら、いくらでも答えてくれる学校だと思うんです。たくさん勉強できる時間って、大学の4年間しかないからね。そういう2度と来ない人生の時間のなかで、勉強をしておかないのはもったいないことですよ。

当時、律法会にいたときは、文化財の建物(慶應義塾図書館・旧館)の地下室で自主ゼミをやって、終わったら「つるの屋」という法律学科の学生御用達の居酒屋に行って終電まで飲んでいましたね。そこで、法律の話や恋愛論、人生論など、今考えたら気恥ずかしくなるような話をしていました。そういう経験も学生の間じゃないとできないです。

 

――律法会の登壇や今回の取材もそうですが、学生との交流に積極的な印象を抱いています。何か特別な思い入れや理由はあるのでしょうか。

やっぱり慶應が好きなんだと思いますね。暇な時はYouTubeで慶應の塾歌とかを見ています。うちの娘は早稲田だけど、よく「お父さん本当に慶應が好きだね、私は早稲田なんて全然好きじゃないのに」なんて言っています(笑)。

自分が学生の頃は、とにかく楽しかったですから。こないだの新入生歓迎講演会でも、勉強する機会や飲んで語ることの大切さ、友達との他愛もない思い出を振り返りました。一生の友達がもてる、やりたい勉強ができる。いい加減だけど、非常に面白くて、誇りの持てる学校ですね。

 

サステナブルでインディペンデントな国にする

 

――現代の若者が直面している課題は、石破さんご自身は何だと考えていますか。

この国はサステナブルではないし、インディペンデントでもない。このことを、どれだけ次の時代を担う学生さん達が思っているのかなということです。人口が急激に減って、そのぶん一人当たりGDPを増やさない限りGDPは減っていく。もともと食糧・エネルギー自給率はとても低いし、くわえて軍隊もない。そういう国でもやってこられたのは、冷戦という非常に特殊な国際環境があったからです。今は、それを成り立たせていた前提条件が全部崩れてしまっています。

国家がサステナブルでインディペンデントであるとはどういうことなのかを真剣に考えなければいけない時代になったと思います。憲法9条ひとつとっても、世界でも精鋭クラスの戦闘機や護衛艦や戦車を有しているのに、これが軍隊でないというのは変な話ですよね。

大戦争、感染症、世界恐慌、テロ。このような激動の歴史は繰り返される。今は時代の転換点にあるのだと思います。「あの戦争(太平洋戦争)に行った人間が中心にいる間は、日本は大丈夫だ。彼らが中心からいなくなったら、日本は危ない。だからよく勉強しなさい」と角栄先生はおっしゃっていた。時代が変わりつつあるいま、戦争に行った人もほとんどいなくなってしまいました。今の学生さんは大変な時代にありますが、大いに勉強して、この国を生き残らせるすべを考えてほしいと思います。

 

――それこそ憲法9条もホットな話題ですが、そういう政治に対する若者の関心が低いなということは若者である僕たち自身も薄々感じています。若者の政治参加を促すには、どうしたらいいのでしょうか。

参加しなかったら、それ相応の報いがあるということを、もっと広めてもらいたいですね。国民主権って今では当たり前のことだと思うかもしれないけど、いわゆる近代市民社会が成立する前は国王が勝手に戦争を始めたり税金を使ったり、そういう時代だったわけですよね。そういう時代が長く続いて、国民や市民が立ち上がって、戦争を始めるか否か、税金をどう取り立てて何に使うか、そういう大事なことは国民から代表を出して決めるのだという権利を勝ち取ったのが近代市民革命の本質ですね、ざっくり言えば。

選挙に行かないということは、この国や自分の住んでいるまちがどうなろうが知ったこっちゃない、というのに等しいわけです。国民主権というのは、有権者が権力者であるということだから、どうでもいいという権力者ばっかりになって、国やまちがよくなるわけがない。もし若い人が選挙公報や公約を読んで、きちんと選挙に行けば、間違いなくこの国は変わると思いますよ。悪口だけ言っていたって国は変わらないんです。

 

――身に染みますね、、、

だから選挙に行ってね(笑)。私は、投票は単なる権利ではなくて、義務としてもいいんじゃないかと思っているんです。投票に行くことは、有権者の権利だけど義務でもある。事実、投票を義務制にしている国もあります。「どうなろうと知ったこっちゃない」ではダメなんですよ。

今はデジタルの時代で、調べようと思ったことはいくらでも調べられる。政治家には伝える義務があり、有権者には知る義務がある。このような互いの緊張関係で、議論を重ね、国を作っていく。そういう本来の民主主義を取り戻したいなと思いながら、長いことやっているんですけどね。

 

――以上を踏まえて、石破さんが今後の人生において達成したい大きな目標があればお伺いしたいです。

そうだね。13回も当選させていただいて、37年間やってきて、大臣も幹事長も政調会長も拝命して、思い残すことはあまり無いのだけれど、じゃあこの国が本当にサステナブルでインディペンデントになったかと言われれば、なっていないですよね。私が国会議員になってから20人以上が総理大臣を務めてきましたが、本当に誰が時代を変えただろうかということを考えてみると、実は誰も変えていないような気もするね。

この国を本当の意味で持続可能な独立国家にしていくということが、少なくとも今は達成できていない。こういう問題が日本にはあるのだということを、若い世代にしっかりと伝えていくということは必ずやっていきたいですね。

ただ、「こうあるべきだ!」というのをあんまり言っても永田町ではウケませんね(笑)。まあ、それでも、変に妥協したり迎合したりするくらいなら、政治なんてやらない方が良いと思いますよ。慶應義塾の出身者でいうと、小沢一郎さんとか、小泉純一郎さんとか、一匹狼で妥協や迎合を嫌う政治家が多いでしょう。そこも、慶應の良いところかもしれませんね。

野田陸翔