《平和を語れば》第2回 慶應と大戦 (三田編)

 

戦争と大学

「すぐに役に立つものは、すぐ役に立たなくなる」というのは、当時の塾長・小泉信三の時代に義塾で唱えられた言葉である。だが、この時代、国によって推進された研究はもっぱら戦争の遂行に「役に立ちそう」なものばかりだった。

「一見、戦争に『役に立つ』分野だけに研究費が援助されました。文学など、『役に立たない』とされた学部は整理・縮小される時代でした。特に、立場の弱い私立大学は、国につぶされる可能性もあり、積極的に戦争協力を行わざるを得ませんでした」。

慶大のキャンパスにも、軍が駐留することとなった。日吉キャンパスが海軍の戦略的拠点として使用された(日吉編参照)のに対し、三田キャンパスでは、一部の教室に陸軍の部隊が常駐した。

「三田キャンパスの空き教室を慶大が軍隊へ貸し出したのには理由があります。空いている建物を残していると、空襲の際に延焼する可能性があるため、建物を空室にしてはいけない、空いている建物は貸与することを求めるのが国策でした。ただでさえ、学生の出征や勤労動員により空き教室が増え、収入も減少していた義塾も、建物を有償で貸し出しました」

ある意味、三田キャンパスの陸軍駐留は、校舎を守る為の苦肉の策という側面もあったのである。実際に、一部の空き教室は民間企業へも貸し出されていた。

「戦争末期になると空襲が激しくなり、教職員が宿直として校舎へ泊まり込み、実際に軍人と分担して消火活動をしました。宿直の記録には、西脇順三郎(英文学者)など著名な教員のサインも残っています」と都倉准教授は語る。義塾の存続のため、必死の努力がなされていたのである。

戦時中の三田キャンパス(慶應義塾福澤研究センター提供)

塾生・上原良司

「自由の勝利は明白なことだと思います。・・真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切ってあるく日本人、これが私の夢見た理想でした・・明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後ろ姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」

(『新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(岩波書店)抜粋)

 

不幸中の幸いか、勤労動員による塾生の犠牲者は少数に留まった。だが、学徒出陣により多くの慶應義塾生が帰らぬ人となったことも、忘れてはならない事実である(※慶應義塾関係者の詳細な戦没者リストは、慶應義塾史展示館で閲覧可能)。

特によく知られた戦没塾生は、上記の遺書を書き残した上原良司だ。「彼に関しては、その極めて特徴的な遺書が有名です。一方、膨大な資料が残されており、それらから彼の『等身大』の姿を垣間見ることができます」。ほぼ全ての資料は彼の実家に保管されているのだという。

 

・顔に似合わず操縦が下手で、いつも上官の小言を引き受けてくれた

・いつも居眠りばかりしている

・いかにも慶応ボーイのロマンチストだ

 

仲間達の寄せ書きなどからは、特攻のための「捨て駒」ではない、ユーモラスで親しみやすい「一塾生」上原良司の姿が浮かび上がってくる。暗号を用いて恋文を書くなど、彼についての逸話は枚挙にいとまがない。

「反戦的な内容を残した遺書が伝説と化していますが、やはり戦闘機乗りに憧れていたのでしょう。学生時代に戦闘機を描いた落書きが残っています。日吉にいたときの彼は一軍国少年であるといえるのではないでしょうか。一方で、入隊後は軍の上官にはっきりと物を言う青年でもありました。彼は思ったことを素直に表現する力を持った人物だったのです」

だからこそ、彼の書き残した言葉は現在でもなお、多くの人々の心を打つのだろう。

「彼の遺書には、自らの戦争や特攻に対する疑念が赤裸々に描かれています。『表現する』ということを知っている彼だからこそ、自分の率直な想いを綴ることができたのでしょう」と都倉准教授は考えている。

夏の日の兄妹(上原家の家族写真。後列右が良司)(慶應義塾福澤研究センター提供)

帰らなかった塾生

上原良司だけではない、戦争で命を落とした、ひとりひとりの塾生に「人生」があった。

「小泉信三の息子・小泉信吉は、海軍入隊後の何気ない日常を手紙に書き留めていました。最期の手紙も、食中毒を起こして倒れた1匹の猫に関する笑い話を書いています。日吉キャンパスのあるクラスのクラスメイト全員の軍歴を調べたことがあります。ある学生は特攻で戦死し、ある学生は人間魚雷で戦死。もちろん生還した学生も多数いました。同じクラスの中でも様々でした」

皆が慶應義塾で学び、その時代を懸命に生きた「命」たちであった。

 

戦争の傷跡

今日の明るいキャンパスとそこで学ぶ塾生達の姿に、凄惨な戦争の痕跡は一見感じられない。だが、私たちが普段なにげなく見落としているものの中にも戦争の傷跡がある。

「旧図書館の玄関の上についている校章をよく見てください。周りの彫刻が剥がれていることがわかります。これは空襲のときについた傷をあえてそのまま残しているのです」と都倉准教授は指摘する。

そしてなによりも、「三田キャンパスにある校舎の形がバラバラである事が、戦争の痕跡であると言っていいでしょう。木造の建物は『建物疎開』や空襲で失われてしまいました。結果、戦後、物資が豊かでない時代に、低層で余り丈夫でない、同じ仕様の校舎が複数建設されます。そして、高度成長期に鉄筋コンクリートに建て替えた校舎も寿命を迎えてすこしずつ更新されていて、今のような不揃いな状態になったのです」

戦争の時代と現代の義塾は決して断絶しているわけではない。歴史の連続性を感じさせるエピソードである。

戦争直後の三田キャンパス(慶應義塾福澤研究センター提供)

平和を語れば                                

再び慶應義塾が戦禍に巻き込まれないためには、戦争に関与しないためには何が出来るのだろうか。都倉准教授は今こそ己の言葉で「語る」ことが大切であると感じている。

「『お客様にならない』ということに尽きるのではないでしょうか。自分で考えて思うことは盛んに表現するということが大切です」

そう考えるのは、ある程度の「ムード」が浸透してしまうことにより、日本社会が何度も閉塞的になった過去があるからだという。

「物を言いにくくなり、議論が出来なくなるということを日本は何度も経験しているわけだから、おかしいなと思うことがあれば日頃から気兼ねなく口にできる文化が大事です。一方、自分と違う意見も受け入れて考えるという『寛容さ』も必要です。特に昨今のインターネット社会では、そのような態度がますます失われているので、そういった現状を乗り越えなければなりません。『平和』に到達点はありません。『どうせ何も変わらない』ではなく、日々の生活で『平和』を作っていく不断の努力が必要なのです」

藤城清治《幻の門》(藤城清治事務所 提供)

 

(石野光俊)

日吉編も御覧下さい

第3回につづく

 

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