今月より、新連載『平和を語れば』を開始します。先の大戦から76年の時が経ち、
コロナ禍の現在、世界の先行きはますます不透明になっています。疫病・格差・環境破壊の時代。人類が「平和」を実現するためには、どの様な思想・表現・言葉が語られるべきなのか。本連載では、「平和」の重要性を発信し続ける様々な方にお話を伺います。読者の皆様が、これからの社会の在り方について、考えてくださるきっかけになれば、この上ない喜びです。

前近代の日本

日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す-。

遣隋使である小野妹子を通じて、日本から隋の煬帝に届けられた書簡の書き出しだ。

このあまりにも有名な一節には前近代の日本人が抱いていた世界像が凝縮されているという。だが、それが破壊された近代以降、日本は暗い戦争の歴史を辿ってしまう。

新連載第1回目の今回は、東洋の近代国家・日本が、なぜ平和を実現できず、無謀な戦争へと突き進んだのかを検討する。近代政治史の第一人者、慶大法学部の片山杜秀教授に話を聞いた。

「古代の日本人は自分達の国が世界の東端、つまり日の本に位置していると考えていました。だからこそ国土の西方には防人などを設置する一方で、太平洋側にある外国勢力の存在を想像さえしなかったのです」と片山教授は当時の人々の考えを推測する。現にその地理的状況も幸いして、日本は長らく他国の侵略の恐怖から守られていた。

法学部・片山杜秀教授

攘夷と戦争

だが、19世紀に入ると大きな変化が訪れる。ヨーロッパ諸国やアメリカの台頭により従来の世界像が崩壊を余儀なくされたのだ。

「鎖国前の状態では西欧も木造船・帆船の時代。当時の日本にとってヨーロッパは恐怖の対象ではありません。ですが、日本が鎖国しているあいだに西欧では産業革命や植民地政策がおこり、19世紀の段階では軍事力・科学力・経済力に大きな差が生まれていました。アジアに進出したアメリカやイギリス、巨大な隣国であるロシアや清に囲まれ、日本は相対的に『持たざる国』になってしまっていたのです」。

そこで発展したのが「攘夷」の思想だった。江戸時代初期のキリシタン問題等も相まって、当時の日本人の間には外国に対する不信感があり、鎖国体制の維持が強く求められた。しかし、当時の情勢はそれを許さなかった。

「水戸藩の徳川斉昭など攘夷派の一部の人々は、最初は自前の大砲で外国船を撃退できると信じていました。ですが、産業革命以後、西欧の船や大砲は遥かに発展していたのです。そこで独立を保持するためにはどうすれば良いのか、真剣に考えなければならなくなりました」。

片山教授は、明治以降の近代日本の歩んだ道を、外交と対外戦争の歴史であると分析する。

「五箇条の御誓文の中でも、外国の存在を意識した強固な国民国家の形成の必要性がすでに訴えられています。内乱と認識されている幕末の動乱や西南戦争だって、外交姿勢の違いを巡る戦いでしょう。その後の対外戦争は言わずもがな。辺境の『持たざる国』としての『恐怖心』が良くも悪くも近代日本を起動させるバネになったのです」

欧米の台頭により、日本古来の世界像は崩れ去った
         月岡芳年《皇国一新見聞録 浦賀亜船来航》(1876)

大正デモクラシー

その後、日清・日露戦争での成功を経て、日本は一躍列強の仲間入りを果たす。日本の対外関係は小康状態となり、民主主義的な気風の大正時代が訪れた。

「日清・日露戦争によって、ロシアからの侵略に対する『恐怖心』は薄らぎました。そこで今度は自分たちの国の中で、自らの人生を全うしたいという人が増えてきたのです」。

戦争の恐怖から当座は解放されることにより、個人主義や自由主義が一気に花開いた。

その後、大正14年(1925年)には普通選挙法が制定され、成人した男子であれば所得や身分に関係なく誰でも投票し、政治に参加できるようになる。同時に、日本の経済は第一次産業から第二次産業への移行が進み、数多くの労働問題が噴出した。

「第一次産業の時代だと、良くも悪くも村社会のしきたりの中で自分たちの生き方が決まっていました。ですが、第二次産業の時代に移り、都市へと集中した労働者に血縁や土地の縁は関係ありません。共同体の支えを失った個々人が結束し、自分たちの権利を要求しなければならなくなったのです。社会運動や労働運動がさかんに行われました」。

それらによって実現したのが、いわゆる大正デモクラシーだ。大正は、自由や平等、個人の幸せが重視された時代であるから、必然的に平和な世が訪れたというのが従来の見方である。

だが、その視点からだけでは、その後の日本の急速な軍国主義化を説明できない。片山教授は、大正デモクラシーが孕んでいた戦争に対する肯定的な姿勢を指摘する。

「大正時代に起きた第一次世界大戦では、帝政国家が軒並み崩壊しました。戦争が長期化するにつれ、皇帝の指導責任が問われ、革命に繋がったのです。そこで列強は、皇帝の名の下に戦争を継続するよりも、国民の合意の下に戦争を行う方が遥かに効果的であると考えました。選挙で選ばれた指導者が『戦争しかない』と訴えても、それは形式上、国民の選択になるからです。第一次大戦の結果は、これからの社会におけるデモクラシーの重要性をはっきりと示しました。」

日清・日露戦争での成功により、日本は列強の仲間入りを果たすが…
    水野年方《樺山中将奮勇猛進の図》(1894)

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石野光俊