中央線沿線には古本屋さんがいくつもあり、ずいぶんお世話になった。20年近く韓国で暮らし、その後は千葉の柏に住んだので、これらの古本屋さんのことは、すっかり忘れていた。国際交流のお手伝いでたまたま三鷹に行った折に駅前の古本屋さんに立ち寄ってみたのである。

お店の主人の「本を買う人が少なくなって、商売にならないんだよ。うまくやっている店もあるけどね」という声を境に、急に学生に戻ったように感じられ、奥に目を向けると『サルトル全集』が目に入ってきた。棚から取り出して、ページをめくってみる。あれ、これ、怪しい! 目立たないように小さな点を付ける癖が当時からあり、その点がいくつか残っているのだ。するとこの『サルトル全集』は韓国に行く前で何かと物入りのため、整理した折の全集で、30 年ほどの間に複数の読者を行き来したあと、ここの場所にまた戻ってきたのであろう。

学生の頃は芝居一途で戯曲なら何でも読むというスタイルであった。ギリシャ悲・喜劇にシェークスピア、サルトル、カフカ、ジャン・ジロドゥ、カミュ、ラシーヌ、ブレヒト、アヌイ、チェーホフ、ベケット、オールビー、テネシー・ウイリアムズ、イプセンなど、国内のものでは木下順二、武田泰淳、三島由紀夫、井上ひさし、安部公房、別役実などを読みあさり、いくつかは公演の台本となった。

韓国では学生演劇などの指導も長くしていて、何をどのように読めばいいのかという質問をよく受けた。帰国後は演劇とは遠ざかっているが、読書法については学生からときどき尋ねられる。「文学作品を読みなさい。できれば全集がいい」と言うことにしている。作家が一生をかけて築いた文体や文学世界、思想などが自然に分かるようになる。理由は定かでないが、事実である。

諸君はある日、ある作家の作品の一部分が何かに出ているの見て、あっ、これは誰々の文だと分かる自分を見つけることになる。それはルノアールとかドガとかモネとかの絵の一部を見て、誰の絵か瞬時に分かることと似ている。文にも絵にもDNAのようなものがあるからであろう。諸君には自らのDNAを生かして21世紀を担う使命がある。自分のもつDNAが何たるかを知るためにも、ぜひ全集を読む習慣を付けてほしい。軽めのものからならというのなら、安部公房の「赤い繭」を薦めよう。10分もあれば読める。さあ、いまゆかあーん。

兼若逸之(かねわかとしゆき) 環境情報学部講師(非常勤)。東京女子大学教授。1945年生まれ。韓国の延世大学校で博士課程を修了。文学博士。専門は朝鮮史、日韓比較文化。著書に「兼若教授の韓国案内 釜山港に帰れません」(集英社)など。

サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)