『学問のすゝめ』150年 「言葉で行動を起こす人」応援した福澤

『学問のすゝめ』初版が出版され、今年で150年。もとは著者である福澤諭吉が、西洋の考え方を故郷・中津の青年に向けて記した同書は、広く出版されると、一般の人々にも分かりやすい文体が功を奏し、瞬く間に評判となった。

 

特別展展示室の様子

 

12月17日(土)まで、三田キャンパスの福沢諭吉記念 慶應義塾史展示館で開催されている、「2022年度秋季企画展 福澤諭吉と『非暴力』―学問のすゝめ150年―」では、同書が民衆に受け入れられた過程と、同書をきっかけに千葉の小さな村落の人々が起こした国への行動にまつわる史料が展示されている。

今回は、福澤研究センターの都倉武之准教授に話を聞きながら同展を回ってみよう。

 

努力次第でリーダーになれる

来場者を出迎えるのは、非常に希少な『学問のすゝめ』初編初版本と、広く一般に流布した、初編から17編。わずか20ページの初編初版本は、世界にたった20冊ほどしか確認されておらず、当時では珍しい金属の活字本であることも、現在の価値を高めているそうだ。

同書は、「天は人の上に人を造らず」というお馴染みの一句から始まる。1869年以降に進められた士農工商の身分制度の撤廃に際し、戸惑っていた平民の心を掴んだのは、まさにこの一句であった。福沢は、身分の差がなくなった日本において、地位の上下を決めるのは学問をしたか否かであるとしたうえで、誰でも努力すればリーダーになれると述べた。

政治は「主」である役人が行い、他の人々は「客」として従うそれまでの体制ではなく、誰もが学問を修め、自分の意見を提示していくことが人間の「分限」だと説いたのである。

 

言葉の力で、人々の幸せを増進する人になれ

福澤が政治で重視した点は2つだ。

まずは、「人々の役に立つための行動をとること」。福澤は、自らの命を犠牲にして天皇を守ったと称えられていた、楠木正成公を批判する。彼の命が、結局は権力争いの中で有力者の地位を保証するために使われてしまったためだ。福澤は、一般の日本人の幸せにつながるような行動こそ称賛に値すると考えていた。

次に、「言葉の力によって訴えること」。福澤は、赤穂浪士に関しても苦言を呈する。彼らは討ち入りの形で正義を示したが、言葉で政府に訴えて実現すべきだったという。福澤が演説を重視したのもこの考えからだ。同展では、「三田演説日記」や、演説用ホールである明治会堂を描いた錦絵も見ることができる。

福澤は、以上2点を貫いた人物として、江戸時代前期、重税に苦しむ農民のために命がけで将軍に直訴したとされる、下総国(現在の千葉県あたり)の名主・佐倉宗五郎を挙げ、彼のみを称えている。

 

小さな村の勇気を後押しした福澤

展示室の奥に進むにつれ、焦点は、『学問のすゝめ』に影響を受けた小さな村へと移ってゆく。

千葉県北部の長沼村は、田畑が乏しく、暮らしのために沼での漁業に頼るほかなかった。そのため、江戸時代までは、沼での収益を年貢に換算して納め、沼を占有する権利が認められていた。しかし、地租改正に乗じて、周囲の村も利用を要求。明治5年、周りの村は賄賂などを用いて県の役人を動かし、沼を国有化した。長沼村の人々は、暮らしを守るため願書を送って抗議したものの、聞き入れられることはなく、それどころか、なかには逮捕される者もいた。

そこで立ち上がったのが、長沼村代表の小川武平だ。彼は、『学問のすゝめ』のなかで語られる、同じ千葉の地で闘った佐倉宗五郎の伝説に触発された。「正義を掲げて主張すれば通る」と信念を掲げ、近隣村出身の慶應の塾生をつてに、福澤に会おうと試みる。明治7年の暮れ、会談は実現した。

福澤は、まずは国から沼を独占的に借りる権利を得るべきだと助言し拝借願を代筆。さらに県知事に書簡をしたため、それまでの願書が届いているか確認をとるなど、村を助けるため協力した。小川が主導して、数多くの願書が提出され、そのうち7通が同展で展示されている。

長年にわたる根気強い努力が報われ、明治33年、長沼村は沼の所有権を取り戻すことができた。

学び、言葉で訴えることで得られるものの大きさを、事件前は筆さえ持たなかった小川の変化が体現している。

福澤から長沼村に贈られた掛け軸(「私とあなた、あちらとこちらという対立はない」という意味

 

語り継がれる福澤の姿勢

沼の下げ戻し(所有権回復)の後も、福澤による村への支援は続いた。村民が役人の言いなりにならざるを得なかったのは、彼らの学が足りなかったからだと考えた彼は、高額の出資をし、校舎を持つ小学校としては千葉で2番目の、長沼小学校を建設した。また、周りの村との対立を防ぐため、当時の塾長・鎌田栄吉や弁護士とともに、沼での漁の制限や資源管理についての規則を整えた。

福澤の記憶は、現在も村に息づいている。村民は、福澤宗家(長男の家系)が途絶えるまで100年以上、お礼にと子孫のもとへ足を運んでいたほか、現在も慶應義塾を訪問している。また、下げ戻しが実現した3月29日には、村で福澤に感謝する儀式が催される。村民が制作した福澤の肖像画や銅像、そして「長沼下戻記念の唄」を歌う涙まじりの声が、村にとっての福澤の存在の大きさを物語る。

長沼は干拓され、長沼小学校は豊住小学校と合併するなど、村は姿を変えた。しかし、豊住小校歌のなかでは「独立自尊」が歌われ、長沼事件についての調べ学習が行われるなど、福澤の思いは子供たちにも引き継がれている。

展示開催にあたり、長沼村から贈られた花

 

それぞれの視点で『学問のすゝめ』を

都倉氏はこう語る。

「『学問のすゝめ』に決まった読み方はなく、その時代で、各自がそれぞれ何かを感じ取ることができればそれでいいと思います。現代でも本書が実用書だと言われるのは、初版が刊行されてから150年、日本人が大きく成長していないことの裏返しともとれるのではないでしょうか」

福沢諭吉記念 慶應義塾史展示館には、同展示以外にも、今から100年前の慶應義塾のジオラマや、福澤ゆかりの人物や出来事を映像と音で体験できるパネルなどがある。

暴力による大事件も起こった昨今。窮屈な思いをしている人々の言葉を拾える人となるために、そして苦しいとき、言葉で自分を救える人となるために。福澤の思想に触れてみてはいかがだろうか。

 

(西室美波)