《慶應生の本棚》今夜、世界からこの恋が消えても | 感想・レビュー・あらすじ

「当たり前の日常を大切に」――。この言葉をコロナ禍になってからよく耳にするようになった。好きな時に好きな人と好きな場所へ出かけられる、笑い合える、連絡が取れる。このかけがえのない日常が徐々に動き出そうとしている今、ぜひ読んでほしい作品がある。

 

「今夜、世界からこの恋が消えても」
第26回電撃小説大賞にて≪メディアワークス文庫賞≫を受賞した一条 岬さんのデビュー作だ。今月(7月)29日には道枝駿佑さん(なにわ男子)、福本莉子さんのW主演で実写化された。

 

主人公の神谷透(かみや・とおる)は幼少期に病気で母を亡くし、父と二人で暮らす高校2年生。苦労が多かったせいか自分の置かれている状況を常に客観視し、特段上下のない人生を望んでいた。
そんなある日、平穏な日常を変える出来事が起こる。クラスメイトが受けていた嫌がらせをかばったことで、男子から羨望の的であった日野真織(ひの・まおり)への嘘の告白を仕向けられたのだ。断られるはずの告白だったが、彼女が受け入れたことで彼の学生生活は思いもよらぬ方向へと動き始める。「お互い、本気で好きにならないこと」。それを条件に彼女との奇妙な疑似恋愛が始まったのだ。
しかし、彼女には秘密があった。真織は高校2年生の春に交通事故に遭い、寝るとその日一日の記憶を失ってしまうという前向性健忘を患っていた。それでも彼らが一日限りの恋を積み重ねていく中で、それまで止まっていた透の家族や友人関係、透の心にも変化が生まれ始める。初めて父にものを言ったこと、有名作家となった姉との関係性――。すべてがうまくいき始めていたそのとき、その恋は突然終わりを告げることになる……。

 

「記憶」は私たちを勇気づけることもあれば、落胆させることもある。ときに生きていけないほど苦しむことも……。この記憶さえなければ、この人を忘れられたら、この出来事がなければ、そう思うことはきりがない。だが、その経験があったからこそ今の自分があると信じることで前に進めることもある。

 

コロナ禍で過ごした2年半。私たちは「当たり前」の喪失を目の当たりにした。しかし、この2年半の記憶は悲しいものばかりだっただろうか。「友達との久々の再会」、「家族が元気でいること」、「久しぶりの学校行事」、「少し遠出した旅行」。そんな「当たり前」を得ることの難しさを再認識できた時間でもあった。家族、友人、恋人、学校の先生、サークルの先輩――。「当たり前」を作ってくれる人は数え切れない。今日はその人たちに感謝の気持ちを伝える、そんな日にしてはどうだろうか。