香りのデザイン研究所。このロマンのある名前を持つ研究所をご存じだろうか。塾員であり所長の吉武利文氏が一人で経営する小さな研究所。しかし、その業績には大きな夢が詰まっている。
例えば劇場空間において、照明や音響のように、舞台を彩る演出として「香り」を活用した。コニカミノルタの2つのプラネタリウム“天空”と“満天”のヒーリング番組では、美しい星空と心地よい音楽と共に、神秘の世界へのイメージをより豊かにさせてくれる香りが漂う。空間にただ充満させるだけではなく、シーンに合わせて香りを変化させ、光や音楽と一緒に観客の想像を駆り立てる。
また、ロックバンド「SEKAI NO OWARI」のコンサートでも、広大な野外会場で7万人もの観客に曲のテーマとなっていた海の香りを届け、不可能を可能にするコンサートの魅力を伝えた。
さらに、柔軟剤のウェブ上のCMでは「香調オルガン」の香りの監修・選定を手掛けた。原案は19世紀のイギリスの化学者であるピエスの「香階」という香りで音階を表現したもの。鍵盤を弾くと空気が香りの入った瓶の口に送られ、香りが広がるのと共に音が鳴るという仕組みだ。時間と共に香りは蒸発してしまうため、その度にチューニングが必要な繊細なオルガンである。しかし、瓶の淵をなでて、香りをのせた風の奏でる優しい音色は19世紀には実現の叶わなかった夢のオルガンの音色だった。香水の香りをトップノート、ミドルノートなどと表現するが、この「ノート」もピエスの考案した香階に基づき香りを音符に例えた表現だ。香りと音、両方の音符の奏でるハーモニーが空間を彩り、見る人をファンタジックな世界へと誘う。
香り、と聞くといわゆる「いい香り」を想像しがちであるが、この研究所には「悪臭」をつくる仕事も舞い込む。沖縄の南風原文化センターからは、「戦時中に病院として使われていた壕の中の臭いを再現してほしい」という依頼があった。当時のことを語り継ぐ戦争体験者の高齢化が深刻化する中、彼らが口を揃えて言うその壕の中の死臭や糞尿などの混ざった凄まじい臭い。それを見事に再現した。後世にいかに沖縄の地上戦が過酷であったかを伝える足掛かりとなったという。
香りをデザインする吉武氏の持ち歩くノートには、様々な香りの〝レシピ〟が書かれている。まさに料理のレシピのように事細かに香りの配合の割合や、何を隠し味として使うかなどが記されている、夢と希望の詰まったノートだ。
香りは人の記憶に密接に関わっているとよく言われるように、嗅覚は人間の感覚的な部分に深く切り込む。吉武氏は、人間本位となっている世の中で、香りの演出を通して、人が自然の中で「生かされている」という実感を持てたらと話す。理性に偏りがちに生きる現代の人々に、本来備わっている五感の全てを働かせて、目の前の景色を感じさせることのできる演出。その可能性を秘めるものが「香り」なのだ。
(山本理恵子)