本は、読むものではなく、使うものとなってしまって久しい。実際、ここ数年、最初から最後まで読んだ本は全体の数パーセントにも満たないのではないかと思う。そもそも、「本」を読まない。雑誌論文も含めて書類や統計を見ていることの方が圧倒的に多いのである。

こんな私が書評まがいのことをして学生に本を紹介するのは忸怩たるものがあるが、かつては比較的多くの本を読んでいた。しかし、古典以外は、時代の風潮と本が示す正義・善悪の観念が合致しすぎていることに嫌気がさして、それならば事典や統計資料の方が相対的に客観的なだけ役に立つと思うようになったのである。

老年期に近づき、何度か時代の変化を経験すると、その時々の価値観を押しつけてくる書物に啓蒙される体力もなくなってしまい、仕事に必要な本を使うという以外のやり方で書物に接することはなくなっていった。時代から取り残されたともいえる。

しかし、例外はあり、時折読み返す歴史書、簡単な科学エッセー、小説などはある。17世紀の後半の女流作家ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』はそのうちの一冊である。生島遼一や青柳瑞穂をはじめ、何人かの名手が翻訳を手がけており、文庫本(新潮文庫や岩波文庫)として1000円未満で入手できる。

筋書きは単純である。アンリ2世が君臨した16世紀後半のフランス宮廷を舞台に、クレーヴ公の若い妻が宮廷一魅力のあるヌムール公と恋に落ちるが理性で踏みとどまり、妻の恋を知った夫が悲しみのあまり死亡すると、夫人は修道院に入り短い生涯を終える、というプラトニックな恋愛小説である。しかし、読み返すたびに文章のいたるところに警句と辛辣と人間性への理解がひそんでいることを新たに発見する。

当時の宮廷貴族が社交的であることを自らに課し、肉体や精神の苦痛を他者には隠して楽しげにふるまうこと、激しい感情を恥じ、自身の生死の問題を軽く扱うことなどをほとんど倫理としていた美意識には教えられるところが大きかった。情熱を肯定し、「自分自身に正直に生きる」ことが正しい、という風潮の中で成長しつつあった己の浅薄を省みる機会となったのである。

正直を粗野として軽蔑し、クールな偽善に賭ける、という生き方がよしとされた時代があったらしいと知ることは、自分がいつのまにか身につけた感情や価値観もまたある時代に規定されたものでしかないという認識を与えてくれる契機にもなった。

自分のありふれた不幸を辛い、苦しい、と騒ぐのではなく、苦境の中にひそむ滑稽な部分に苦笑しつつ上機嫌に過ごす術を獲得するためのハウツー本としてお勧めします。

(談)