考えてほしい。当たり前のことを当たり前に主張できなくなった世の中を、その恐ろしさを。今回紹介する作品は誰もがそのタイトルを聞いたことがあるものだろう。1948年に出版されたこの作品は現代に生きる私たちにメッセージを与えてくれる。

 

しばしば政治的文脈で引用されることも多い本作『1984年』は、全体主義国家が統治する社会の恐ろしさを描いたディストピア小説の金字塔として有名なのは言うまでもないだろう。オーウェルによるディストピア社会を寓話的に描いた『動物農場』に次ぐ作品として発表された。

 

舞台は戦争で荒廃し、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの三国に分割統治されている世界。主人公はその中で旧イギリスなどにあたるオセアニアの官庁〈ミニトゥルー〉に勤める官僚、ウィンストン・スミス。全体主義国家で過去のニュースを改ざんする仕事に従事している彼は、オセアニアを統治する党とそのトップ〈ビッグ・ブラザー〉に反発心を抱いている。毎日テレスクリーンから流れてくるのは、党とビッグ・ブラザーのおかげで生活水準が向上した、ユーラシアとの戦争にも勝利し続けている、というものばかり。現実はちっともよくなった気がしないのに。チョコレートの配給が30グラムから20グラムに減ると伝えられた翌週には、チョコレートの配給が20グラムに増えると宣伝されるおかしな日常。

彼はある人物との出会いから、党とビッグ・ブラザーへの反抗心を自分の内なるものから外側に出すこととなる。ジュリアという女性との出会いと恋から、彼は〈思考犯罪〉を現実のものとする。党中枢の幹部オブライエンに誘われ、党への反抗組織〈ブラザー同盟〉に彼らは身を投じる。

スミスとジュリアが隠れ家で〈ブラザー同盟〉の禁じられた書物を読みながら音楽を聴いていると、異変が起こる。「ぼくたちはもう死んでいる」スミスが言う。「わたしたちはもう死んでいる」ジュリアが言う。「きみたちはもう死んでいる!」背後からささやかれる。隠れ家の壁の裏にはテレスクリーンという盗聴器付きのテレビが隠されていた。彼らの〈思考犯罪〉は〈思考警察〉に露見する。〈思考警察〉の手によって愛情省〈ミニラヴ〉に連行され、取調室でスミスが出会ったのは「スミスを治療する」と称するオブライエンであった……。

 

この小説が他のディストピア小説などと一味違うのは何よりもリアルな恐怖を抱く点だろう。本作特有のワードは多々あるが、それらひとつひとつに真実味が宿っている。中でも、調査局で勤務する友人サイムと主人公がニュースピークについて話す場面は特筆すべきものがある。ニュースピークという新たな言語を編さんする仕事をしている言語学者のサイムはスミスにこう語る。「君は我々の仕事を新語の発明だと思っているのだろう、実際は違う。われわれは言葉を破壊しているのだ」と。では、何のために言語を破壊しているのか。サイムは次のように続ける。「ニュースピークの目的は思考を狭めることにある。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。自由という言葉のない世界でどう自由を表現すると言うのだね」

言葉が概念をつくるのならば、その言葉をなくせばその概念もなくなる。党への反抗を、言葉を奪うことでその意思を砕くのではなく、この世に存在しないものへと昇華する。

スミスは禁じられた日記にこう記す。―自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由は全て後からついてくる―この記述が、作中後半でどう扱われるのか。

そして、この小説はラスト一文がすべてを完成させている。この一文なくして『1984年』を読んだとは言えない。このラスト一文のためにそれまでの物語、設定が存在していたかのように思える結末。結末であるからこそ、ここでそれを述べられないのが残念ではあるが、実際に読むことでこの物語の結末を知ってほしい。作中のオブライエンが言うように、スミスは罰を与えられるのではない。治療させられるのだ。この治療が何を意味するのか。過去までをも変えられる権力が行きつく先を、疑似体験してほしい。現実で体験することがないようにするためにも。

 

最後に、スミスからの我々へのあいさつ文を載せてこの紹介記事の結びにしたい。

「未来へ、或いは過去へ、思考が自由な世界、人が個人個人異なりながら孤独でない時代へ―真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代へ向けて。

画一の時代から、孤独の時代から、〈ビッグ・ブラザー〉の時代から、〈二重思考〉の時代から―ごきげんよう!」(ジョージ・オーウェル著,高橋和久訳,『1984年』,早川書房)

 

(橋本成哉)