《慶應生の本棚》文字禍|感想・レビュー・あらすじ

コロナ禍という言葉が定着して久しい今、中島敦の「文字禍」を紹介したい。処女作であり代表作でもある「山月記」と共に1942年に雑誌掲載された短編小説だ。

 

古代メソポタミアのアッシリア王国に住む老博士ナブ・アヘ・エリバは、世間の人々に禍(わざわい)をもたらす文字の精霊についての研究をアシェル・バニ・アパル王に命じられた。やがて博士は、「もはや王国は文字の精霊に蝕められている」という帰結に行き着くが、この研究結果の進言は国王に認めてもらえないどころか、知恵の神を崇拝していた彼の怒りを買い、謹慎処分を下される。終いには、文字の精霊の祟りか、大地震に襲われた書庫にて博士は書物の下敷きとなり圧死してしまうというのが、物語の全貌だ。

 

「文字禍」のテーマは、「ゲシュタルト崩壊」「世界の分節化」の二つに大別される。

 

物語の冒頭、博士は文字の霊の真否を確かめるため、昼夜文字と睨めっこを続ける。すると、不可解な現象が博士を襲った。

 

一つの文字を長く見詰めてゐる中に、何時しか其の文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなつて来る。単なる線の集まりが、何故、さういふ音とさういふ意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなつて来る。

 

ゲシュタルト崩壊とは、まとまりのある構造から全体性が失われ、個々の構成区分に切り離されて認識し直される知覚現象の一つを指す。漢字を凝視していると、それがパーツごとに分解されバラバラに見え始めるのは、誰もが経験したことがあるだろう。ゲシュタルト崩壊が学術的に発表されたのは第二次大戦後であり(Faust, 1947)、中島が「文字禍」を著述していた戦前はまだ周知のものでなかった。もっとも、ホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」(1902)やサルトルの「嘔吐」(1938)からは、ゲシュタルト崩壊現象の直接的・間接的描写が認められるため、この心理現象に直面するのは文字を血肉とした文学者の宿命だったと言えよう。

 

ゲシュタルト崩壊を前にした博士は、単なるバラバラの線に一定の意味と音を持たせる人智を超越した何か、すなわち文字の霊の存在を認めるに至るのである。生物、無機物を問わず万物に霊魂が宿るとするアニミズムは、森羅万象に精神的価値を認めた日本にも馴染み深い宗教的思想である。「文字禍」は、そうした霊魂が文字にも宿るのかという着眼点から話が展開していく。ちなみに、古来の日本では、発した言葉の内容は現実化するのだという言霊信仰が受け継がれており、万葉集においても山上憶良や柿本人麻呂の歌に言霊の記述が見られる。

 

文字の霊の影響を確かめるため、博士は市街で聞き取りを行う。文字を覚えてからというもの、急に虱(シラミ)を取るのが下手になった者、空の色が以前程碧(あお)くなくなったという者、咳が出始めた者、顎が外れやすくなった者など。多岐にわたる症例を以てして、博士は「文字は人間に弊害をもたらしている」という仮説を立てざるをえなかった。

 

博士によれば、文字が伝播して以来、人々は世界の事物を文字に書き起こすようになったが、あらゆるものの音と意味を保持し続ける文字の利便性にあやかるあまり、文字に書き留めておかなければ何一つ記憶できなくなってしまった。それどころか、自己の眼を通して対象事物を自身の脳で直接的・直感的に対峙する能力を徐々に、そして確実に失っていったのである。

 

文字、あるいは言葉による世界の分節化は、言語学や脳科学をはじめ、文理横断的に研究されているテーマである。近代言語学の父、ソシュールが言うように、言葉(言語)は概念の連続体を象徴化し、それを意味カテゴリーに分類し、単語として記号化する。世界の分節化とは、この記号(意味)付与の過程である。たとえば、蝶という昆虫がいれば、ふつう蝶というモノが先にあって、蝶という言葉は後から名付けられるように思われる。しかし、ソシュールに言わせれば、それは逆であって、蝶という言葉が先にあってはじめて、蝶というモノが認識され、他の昆虫と区別されるのである。言葉を覚えたての赤ん坊が蛾を見て「チョウチョ」と言うのは、蝶という言葉しか知らず、蝶と蛾を同じモノ(蝶)として認識しているからである。「それは蛾と言うのよ」と誰かが教えない限り、赤子は両者の違いに気づかない。実際、日本語話者からしたら明白に異なる蝶と蛾も、フランス語話者からしたら同じ「パピヨン」として形容される。日本では7色の虹が、他国ではその数を増減させるのも、この理(ことわり)による。目や脳といった身体構造が変わらないのに、文化圏(言語)が違えば見ている世界も異なるというのは、モノではなく言葉が先にあって、それが我々の五感的世界を後から形作っている証左に他ならない。

 

この世界の分節化に、博士は悲愁の情を覚えた。

 

文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはひつて来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。

 

かつて人間が感知していた生の感情や心緒も、文字を知ってからは一種の記号として認識されるようになったのである。メソポタミアの広大な森林を見下ろしたときに現れる、直接的な生の感情・本質的な豊かさは「美しい」「綺麗」といった言葉のフィルターを通して副次的にしか知覚できない。文字が先行して概念を支配するようになったのだ。知見を広げるはずの文字が、知覚を制約するというアイロニーである。

 

やがて人間は、あらゆるものを言語化し、文字にならないものを切り捨てるという近代合理主義の道を辿った。記されぬものは、もはや存在しないのと同じ。LGBTQや発達障害という文字が見出されるまで、その対象者は「常態からの逸脱」として度外視され続けたのは言うまでもない。

 

中島は、持病の喘息をこじらせ33歳で夭折した。文字を生業とした生涯を、病という禍により閉じた男の死は、奇しくも書斎のなかで文字に殺された老博士の死とどこか重なる。「文字禍」は、20分もあれば読み終える短編だ。文字に魂を捧げた文学者の思想と葛藤を、ぜひ紙上で知覚してもらいたい。

 

 

(野田陸翔)