《慶應生の本棚》香君 (上)・(下)|感想・レビュー・あらすじ

外出するときに、マスクが欠かせない世の中になって久しい。もはや、マスクを外して外出すると違和感すら覚えるようになってしまった。この日常に慣れてしまった私たちが忘れた感覚を呼び起こしてくれる作品がある。

 

2022年3月、作家で文化人類学者でもある上橋菜穂子氏が、7年ぶりに新作長編『香君』を出版した。代表作である、2015年本屋大賞を受賞した『鹿の王』やメディア化された『獣の奏者』を手に取ったことがある人も多いのではないだろうか。上橋氏の作品の魅力は、物語の世界を飛び出して、現実世界にも通じる主題設定だ。今回、『香君』で主題になったのは「植物」と「香り」である。

 

物語の舞台となるのは、ウマール帝国という国だ。帝国は、かつて「神郷」から初代の香君が持ち帰り、飢餓の危機を救ったとされる奇跡の稲、「オアレ稲」を基盤に大きく発展していた。主人公の少女アイシャは、ウマール帝国の属国のひとつである「西カンタル藩王国」の藩王の孫だ。彼女は、特殊な嗅覚で香りを「声」のように感じ取ることで、植物や虫が香りで行なうコミュニケーションを理解していた。しかし、藩王である祖父の失脚によって彼女の運命が変わり始める。

次第に明かされていく神と崇められる香君の秘密と奇跡の「オアレ稲」に潜む恐ろしい性質。そして、害虫がつかないはずのオアレ稲に発生した虫害。奇跡の稲に依存しすぎた帝国に、再び飢餓の危機が迫り来る。

当代の「香君」とともに、迫る危機を回避するべく動くアイシャ。植物や虫の「香りの声」を感じ取る彼女は、オアレ稲の謎にたどりついて、人々を救うことができるのかーー。

 

「植物は物言わぬ静かな存在」――。作者の上橋氏も以前は、そのように感じていたと本作あとがきにおいて明かしている。そのような中、上橋氏が植物をテーマにした作品を世に出すきっかけとなったのは、数冊の本との出会いであった。静かな植物が実は、化学物質を介して、他の植物や虫とコミュニケーションを取っていたのである。「植物が静かであるのは、我々人間が彼らの声を感じることができないからなのだ」ということに気づいた上橋氏は、かねてより考えていた植物を題材にした作品を執筆した。それが本作『香君』である。「植物が発している香りの意味を理解することが出来たなら、彼らが行っている賑やかなやり取りが『聞こえてくる』に違いない」という思いから、本作主人公アイシャが生まれたのである。

 

昨今、世界は感染症や環境汚染、エネルギー問題、世界人口の急増といったさまざまな社会問題に直面している。しかし、上橋氏が「植物は物言わぬ静かな存在」と考えていたように、どうしても身近でない問題について考えることは、難しいものだ。本作は、そうした膨大な社会問題に埋もれる声なき声―食糧危機、生態系の破壊、貧困、差別―を感じ取るきっかけになるのではないだろうか。

人のいない外で少しマスクをずらしてみよう。久しいマスク生活で忘れていた感覚が蘇って、訴えかけてこないだろうか。アイシャの聞く声なきものの声の一端を、あなたも感じられるかもしれない……。

 

(植竹可南子)


著:上橋菜穂子
出版社:文藝春秋
発売日:2022年3月24日