慶應義塾門下生 早矢仕有的の築いた『丸善』

早矢仕有的に向けて福澤諭吉から送られた手紙(写真=提供)

福沢諭吉と「丸善」創業者の早矢仕有的(はやしゆうてき)が親しき仲であったことは有名な話である。それゆえ、丸善創業には福沢の意思が色濃く表れていた。今回、「丸善」の社史を扱う丸善雄松堂株式会社経営管理部川澄美佐緒さんに「丸善」や早矢仕の話を聞いた。

早矢仕有的と福沢の出逢い

早矢仕有的は天保8年、美濃国(現岐阜県)の医者の家に生まれた。医師として大成した彼は江戸で開業し、名を馳せていった。30歳の頃、早矢仕は英学を学ぶため、当時江戸で有名だった福沢の塾に入ることとなった。門下生として入塾した彼は、2歳年上の福沢と良き学友となり、その後二人で様々な事業を手がけることとなる。

「丸善」創業への想い

早矢仕は、明治の幕開けと同じくする明治2年に「丸善」の礎である「丸屋商社」を開業した。開国を遂げたばかりの日本は、衣服や食などまだまだ江戸文化が中心であり、そこに外国商人が物珍しい舶来品を日本人に売って儲ける、というような光景が多くみられていた。福沢は国益が失われる状況を憂い、日本人が日本人のために商売をし、利益を得ることを望んでいた。そんな福沢の想いを共有していた早矢仕は、日本人が日本人のために商売し、日本人が幸福を得ることを目指したのだった。また、医者だった早矢仕が実業家になるには、相当な決意が必要だったと考えられるが、創業の志を記した「丸屋商社之記」によると、医者になる者より商売ができる者の方が数少ない、という福沢の考えも創業を後押しした、と言われるそうだ。

「丸屋商社之記」
丸善創業に関しての記された書。著者は福沢諭吉とも早矢仕有的とも、はたまた別の人とも言われており定かでない。

草創期の「丸善」が取り扱っていたもの

明治20年『和洋品相場所』によると、丸屋商社が取り扱ったものはバターや胡椒などの調味料から、筆記用具など多岐にわたるものだった。特に万年筆に関しては、明治18年「丸善」が初めて輸入し、ハイソな文具として文化人の間でもてはやされた。また、創業当初の「丸善」が慶應義塾出版の書籍や福沢著作を多く扱っていたことは、「丸善」が福沢と近しい関係にあったからこそである。

「帳合之法」
福沢諭吉著、慶應義塾出版。慶應と繋がりの強い丸善は創業まもない頃慶應義塾出版の書物を多く扱っていた。

ハヤシライスと早矢仕有的

早矢仕有的が、ハヤシライスの語源と言われているのはご存知だろうか。『丸善百年史』などから、担当の川澄さんは「一次資料が消失しているが、ハヤシライスの命名の由来に関しては早矢仕が関わっている説は有力である」としながら、当時早矢仕が作っていた「ハヤシライス」は、野菜と肉の煮こみではあるが、今の味付けとは異なるのではないか、と言う。様々な説があるが、福沢は肉食の普及に尽力しており、また早矢仕は医者としての見地から滋養をつけるのに有効として、「ハヤシライス」の原型となる料理を勧め、振る舞っていた事実はあると考えているそうだ。

福沢・早矢仕から今に続く「丸善」

「丸善」はその商売を営む中で、当時まだ新しい西洋式簿記など、商売の基本を丁稚たちに教え込んでいた。会社を隆盛させるにあたり有能な人材を自ら育成していたのである。また「丸善」は歴代社長に一切の世襲がないことも特徴の一つである。早矢仕自身も銀行業を失敗し、責任を取るために社長の座を退くが、息子にその座を譲ることはなかった。一昨年150周年を迎えた「丸善」だが、創業から受け継がれるものの中に「チャレンジ精神」が挙げられると川澄さんは言う。長い商売の歴史の中で時代に翻弄され、山も谷も経験しながら動じることなく、人々の幸福に貢献しようと努力を続ける。明治という開国間も無い日本で、日本人の幸福を求め、実学と向き合い奔走した福沢や早矢仕の意思がぶれずに「丸善」のその精神性は連綿と続いているのである。

(河野優梨花)