「甲子園を生徒たちに経験させたい」

その思いが背中を押し続ける。早稲田実業高校(早実)(西東京)野球部監督の和泉実さんは、高校野球監督として30年以上にわたり甲子園に挑み続けてきた。

自身も高校時代は選手として甲子園を経験した。「甲子園の入場行進に興奮して鳥肌が立った。あの感動が指導者を目指すきっかけの一つだった」

早大野球部に進学し、学生コーチとして南陽工(山口)に派遣された。「たまたまそこの監督が後任を探していて、自分も指導者志望。山口は本籍地でもあり、郷里だった」。偶然の出会いから監督人生の幕が開ける。

キャリアの中で最も印象に残っているのは、2006年夏の甲子園大会での優勝だ。「あの1年は特別だった」と回想する。全ては斎藤佑樹選手(現日本ハム)の入学から始まった。

当時、早実に専用のグラウンドはなく、甲子園優勝を目指すために十分な環境がそろっているとは言えなかった。「斎藤ほど元々才能がある選手が、なぜウチなんかに」。何が早実と斎藤選手を巡り会わせたのか。今も自問を続ける。

早稲田実高監督・和泉実さん=東京都国分寺市

06年のチームは力があったために、レギュラー中心の練習になっていた。そのため、全ての選手が満足な練習をできなかった。そういった状況で、オープン戦に勝てず、結果を残せない。不満の溜まる選手や中だるみする選手も生まれ、チームはぶつかり、いがみ合っていた。

斎藤選手とキャッチャー・白川英聖選手のバッテリーも決して例外ではない。二人の仲は決して良いとは言えなかった。しかし、それが二人の間に一種の緊張感をもたらした。「チームの仲が良いことと、良いチームワークを作ることは同義ではない」。勝負の世界だからこそ、こだわってぶつかり合う。そこには、選手にしか分かり得ない信頼関係があった。

チームは地方大会を突破し、甲子園の舞台へ。そしてついにあの甲子園史に残る、駒大苫小牧(南北海道)との決勝戦を迎える。斎藤選手と田中将大選手(現大リーグ・ヤンキース)が投げ合った延長15回引き分け再試合は今なお語り継がれる。

「斎藤はかなりの負けず嫌い。特に同世代の選手には負けたくないと一生懸命やっていた。同世代でも田中選手はすでに特別だったが、真っ向から挑戦していった」。負けず嫌いの集大成は夏の甲子園優勝という結果だった。「私自身、優勝して嬉しかった気持ちよりも、生徒を優勝させることができてホッとした気持ちの方が強かった」

監督として全国制覇を成し遂げた今、この仕事を続けるモチベーションはどこから生まれるのか。「何度でも優勝したい。それ以上に、高校時代にしか経験できないこと、こんなこともできるということを生徒に教えたい」。甲子園への挑戦はこれからも続く。

球児なら誰もがその場に立つことを夢見る甲子園。そこで活躍した選手が次世代の目標となり、新しい球児たちが甲子園を目指す。「清宮(幸太郎、現日本ハム)も斎藤に憧れていた」。その憧れの連鎖が「甲子園」という夢の舞台を形作っている。

(藤田龍太朗)

和泉実(いずみ・みのる)

1961年9月10日生まれ、56歳。早稲田実高(西東京)在学時は、捕手として春夏の計2回、甲子園大会へ。南陽工(山口)での監督経験を経て、92年に早実の監督に就任した。

監督として春4回、夏7回甲子園大会に出場。斎藤佑樹らを擁した2006年夏、早実は27回目の出場にして初の全国制覇を達成。今日まで26年間、同校を率い続ける。