【名作探訪】『ピアニシモ』 辻仁成 1990年 集英社文庫

第6期を迎える名作探訪。今期から90年代にスポットをあてていく。
何故90年代なのか。話はまずそこからだ。
2009年、今年はついにゼロ(00)年代最後の年となる。9・11アメリカ同時多発テロに象徴されるように、21世紀最初の10年は決して明るい時代ではなかった。
テロと戦争、終わらない内紛、凄惨な凶悪事件の多発、ITバブルと08年リーマンショックによる経済崩壊。
次の2010年代はどのような時代になるだろう。未来を見据えるため、今此処で過去に目を向けよう。ゼロ年代は90年代の空気を色濃く引き摺っていた。90年代を振り返ることが、これからの私たちのあるべき姿が見えてくる。名作探訪がそれを考える場となれば幸いである。
最初の作品は辻仁成のデビュー作『ピアニシモ』。すばる文学賞受賞作である。高度成長を経た新時代の混迷と、それに振り回される少年、そしてその心の律動を描く。
自分の脆い心を守るため、中学3年生の氏家透はヒカルというもう一人の自分を作り出した。ヒカルさえいれば、学校や家庭がどんなに歪んでいたって耐えられる。
ある日、電話の無料伝言サービスを通じ、「地獄にいます」とSOSを発する少女サキとの交流が始まる。透とヒカル、そしてサキの、誰にも承認されない孤独な三人の奇妙な関係が始まった……。
私にはこの作品が後に到来する自己啓発ブームの予言的言質を含んでいるように思えてならない。
「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ(中略)消えてくれよ。消えてくれよ。ヒカル! 消えろって言ってんだよ」
ヒカルに向けて、透が叫ぶ言葉だ。95年放映のあるアニメ作品を彷彿とさせる。
当時は心理学が流行し、人々がよりメンタルな領域を志向し始めていた頃だ。今日の精神分析ブームは、この時から既に始まっていた。陰湿ないじめ、ヒキコモリ、自殺、そして家庭崩壊。『ピアニシモ』には現代もまだ抱える問題が既に描かれている。
コミュニケーション能力の重要性がしきりに説かれる現代社会。それは逆説的に、コミュニケーション不全に陥る人が多いことを示す。『ピアニシモ』も他者とコミュニケートすることを忌避する少年の成長物語だ。私たちは実に20年近くも、コミュニケーションに行き詰まりを感じている。
春である。新入生も、在校生も、大いにコミュニケーション能力を発揮し、健やかなる学生生活を送られたし。
(古谷孝徳)