三田キャンパスを訪れたことのある人は、はじめ校舎が位置する場所の高さに驚いたかもしれない。どの門から入っても必ず階段や坂道を通ることになり、授業に向かう度に苦しんでいる人もいることだろう。なぜ三田キャンパスがこのような地形になっているのか、慶大文学部教授の山口徹氏に聞いた。

その理由を探る鍵は、三田キャンパスの地面の下にあるようだ。現在の南校舎が建設される時に、事前に地下の状況を調べるため細い円柱状の穴を地下深くくり抜くボーリング調査が行われた。その結果を見ると、地下3メートルほどのところに粘土の層があり、そのさらに15メートルほど下は砂や「れき」という砂利の層となっていることが分かった。

これが意味するところは何なのか。まず、砂とれきの層は三田キャンパス周辺の低い場所にもみられることから、三田一帯の地面の基盤となっているものと考えられる。砂とれきは、海や川がもたらすものだ。塾歌に「新潮寄するあかつきの」という一節があるように、三田キャンパスの近くには芝浦の海があるが、12万年前はキャンパスのあたりにも浅い海が広がっていたことになる。

その基盤の層の上に10メートルから15メートル積み重なっている粘土の層は、火山灰が何万年もかけて堆積したものだと考えられる。これは関東ローム層と呼ばれ、富士山や浅間山の噴火によってできた。川や海に降った火山灰は流されてしまったが、現在の三田キャンパスがある部分はそのままとり残され、何万年もかけて高さを増していった。その間に、地盤の隆起もあったようだ。

周囲より高いこの地を福澤諭吉は学問の拠点としたわけであるが、もともとこの場所は本当になだらかな「丘の上」であったという。

以前、ここには島原藩の中屋敷があった。屋敷を構える際に、起伏のあるこの「丘」を平らにする必要があった。そこで起伏の高いところを削り、低いところを埋めることによって、土地を造成した。これにより、現在も階段や坂道を上ったところは広く平坦な地面となっているのだ。

元来「丘」であった痕跡が三田演説館のあたりに今も見ることができる。周りより少し高くなっている様子が見て取れるが、実はこの場所が三田キャンパスの中で最も高い地点なのだ。ここは、島原藩があえて削らず、築山として元の地形を残したのではないだろうか。演説館の裏にはイチョウの巨木が枝を広げ、かつて稲荷の小社が祀られていた風景を偲ばせている。

高いところに広がる、三田キャンパス。この場所を地形から見てみるのも面白いのではないだろうか。

(青木理佳)