1945年8月15日、日本は太平洋戦争に敗北した。街は荒れ果て、多くの人が亡くなった。しかし平和で豊かな日本に生まれた私たちに、その実感は持ちにくい。戦後70年という節目を迎え、塾生新聞では慶應から見た戦争の記憶をたどる。私たちの先輩は何を見ていたか。戦争とは何なのか。

第一回目となる今月は戦争当時慶大に通学していた丸博さん(1942年大学予科入学)にお話をして頂いた。

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幼稚舎から慶應に通っていた丸博さん
幼稚舎から慶應に通っていた丸博さん

「三田での授業は戦時中も全く通常通りに行われていたように記憶しています。私は氣賀健三先生の経済政策のゼミに入り、また高橋誠一郎先生、千種義人先生の経済原論を聴講していました。経済の講義は、戦時中と戦後で講義の内容は全く変わらなかったです。

他大学では戦後になると打って変って左翼系の講義が流行ったという話も聞きました。しかし慶應では小泉元塾長のご指導のもと、戦後もいたずらに左翼に偏ることはなかったです。小泉先生ご自身も戦災で大負傷され、また海軍主計大尉である、ご令息信吉を戦死で亡くされているにも関わらず、です。

また慶應の初等教育、すなわち幼稚舎の当時は公立の小学校教育とは少し違ったようです。戦争当時、小学校では修身という科目がありました。慶應の幼稚舎ではイェール大学出身で英文学者の小柴三郎舎長が、週に一回、エジソン、ワシントン、リンカーンといった外国の偉人の伝記を分かり易く話して下さいました。戦争とは関係のない、道徳的な教養について教えて頂き、成人してからもためになるお話だったと思います。

慶應のキャンパスも、戦争中は大きな被害を受けました。昭和18年には当時大ホールと呼ばれた大きな講堂が空襲で倒壊したので、卒業式は三田の新図書館の前の広場で行われました。

人的な被害も大きく、大学予科時代では40名程度いたクラスメイトのうち半数は出征したように記憶しています。幼稚舎の級友は各クラス5、6人戦死していて、そのうち大半は沖縄やフィリピンで亡くなりました。

ただ、戦争へ行くことへの抵抗感は薄かったかもしれません。周囲の友達にも何月何日にどこに入隊しろという赤紙が来ていましたし、自分にもいつ赤紙が来るのかと恐れつつ、覚悟をしていました。しかし普通部の時に肺結核を患い、4年間療養生活をしていた私は学校すら満足に通えなかったので、兵隊として戦争に行くこともありませんでした。戦時中の三田は学生が減って寂しい雰囲気でした。

戦時中は学校にいても休み時間に行くところもなかったので、教室と教室の間の芝生が、憩いの場でした。そこで話した友達は後に経済学部の教授になった人や新聞社の経済部長になった人もいて、その時間も貴重なものでした。しかし学食も喫茶店もないほどゆとりがなく、おおっぴらに余裕を見せてはいけないような空気がありました。 戦後のキャンパスは、陸海軍の服や帽子を被って授業に来る学生が沢山いました。除隊した人たちは着るものがなかったからです。ただ軍服を着ている学生たちも、敗戦した後は非常に明るい普通の学生に戻っていました。落ち込んでいるというよりは、戦争が終わって空襲がなくなりほっとした雰囲気が漂っていましたね。

ただ、私自身も出征しろと言われたらいつでも行くつもりでいました。当時はエリート層だった大学生でも、戦争を疑問視する者は少なかったし、自分もしていなかったのです。当時、日本は富国強兵政策で政治や経済は軍部に干渉されていました。だから、今の価値観から戦争を防ぐことができたとか、できなかったとか、そういうことを言うことはできないと私は思っています。

毎年11月には、三田山上塾盟局前で追悼式典が行われています。そして戦没者2226名の名簿が記念碑の下に納められました。戦争の悲惨さを語り継ぐものは年々少なくなりましたが、今自分が生かされていることを心から感謝し、自戒するものです」。
(君塚大樹)