千葉県救急医療センターが終末期患者7名の人工呼吸器を外す行為を行っていたことを今年10月に公表した。人間の「生」と「死」について改めて考えさせられる今回の報道。この報道から私たちは何を考えるべきなのだろうか。文学部の奈良雅俊氏にお話を伺った。

 まずは今回のニュースを整理したい。これは安楽死のケースではなく、治療中止のケースである(この場合の安楽死とは医者が薬などを用いて患者の死期を積極的に早めることを指す)。また内部告発や報道機関からの追求を受けての公表ではなく、医療機関側の自発的公表であった。そして医療機関内で指針(ガイドライン)が整備されておりしっかりとした手続きを踏んで治療中止が行われていた。これら3点がこのニュースの主な特徴であるということができる。今回はその中で「指針」というものに注目してこのニュースの意義を説明していきたい。

 これまで日本で治療中止に関する基準となっていたのは95年の東海大学安楽死事件判決の際、横浜地裁から示された「治療行為の中止の三要件」のみであった。しかしこの三要件には具体的な内容がほとんど盛り込まれていない。そのため現場にこれを適用することは非常に困難であり、時には混乱が生じることもあった。具体的な指針がない状態において治療中止を決定する場合の多くが、主治医1人の判断によって家族との「あうんの呼吸」のもとで行われていたのである。

 現場が治療中止を決定できる具体的な指針を切望している中で作られたのが今年5月に厚生労働省が作成した「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」である。さらに10月には日本救急医学会も終末期医療に関する指針を公表した。ガイドラインが作られる際最も理想的なのは、国レベル・学会レベル・各医療機関レベルでそれぞれ重視される内容がうまく反映されている状態だ。

 しかし国や学会によるガイドラインは実際に医療を行っている現場に向かって一方的に投げられたものであって、そういった点から言えば医療現場の実態に則したものであるとは必ずしも言えない。個々の医療機関レベルでも終末期医療に関する指針づくりを行う必要があるのではないかという意見が出ていた。

 このような流れの中で今回の千葉県救急医療センターの公表は①医療機関内に独自の指針が存在していたこと②主治医1人の判断ではなく、医療チームの判断によりきちんとした手続きを踏まえて治療中止を決定していたという点において大きな意味を持つと言うことができるだろう。今回のニュースをきっかけに現場の側からの発言がますます大きくなることが予想される。

 医療の発達によって「人間の生死」がコントロールできるものになってきている。今回の報道は私たちに改めて生きることとは何かを見つめなおす機会を与えている。

(中里美紅)