2014年7月の塾生新聞500号発行まであと1年。今月の500号企画では、かつての塾生の夏らしい伝統に迫ってみた。現役の塾生は「塾生皆泳」という言葉を聞いたことがあるだろうか。その言葉の示す通り、20年ほど前まで塾生は全員泳げなければならないという伝統があった。果たしてどのようにその伝統は達成されていたのだろうか。

(長屋文太)

塾生皆泳を発した小泉信三氏(三田メディアセンター貴重書室提供)

古き慶應の独特な伝統

「とにかく単位を取るために10日間水泳の授業に通った」と、池田奈緒子さん(1982年経済学部卒)は当時を振り返る。池田さんは夏休みに現在の協生館の位置にあった日吉の屋外プールへ10日間通い、水泳の授業を受けていた。
義塾での水泳授業の起源は古い。「塾生皆泳」という言葉は、1939年に当時の塾長であった小泉信三氏によって発せられ、水泳の必要性を小泉氏は早くから説いていた。戦後の教育改革を経て、体育必修として水泳授業が始まり、「塾生皆泳」が実行された。

池田さんが在学していた時期、本塾大学では週に一度のウィークリースポーツと、長期休暇中に実施されるシーズンスポーツの両方の単位を取得する必要があった。ウィークリースポーツの種目は数週間ごとに変わるのだが、水泳は6月頃から始まる。 その水泳の授業で、泳力テストが実施される。テストで50mを泳ぎ切れなかった学生は、シーズンスポーツで水泳を選択することを余儀なくされた。シーズンスポーツにはスキーや登山をはじめ、陸上やボクシングとさまざまな競技が設置されていたのだが、それらを選択したい学生は必死に50mを泳ぎ切る必要があった。

現在の協生館の位置に存在した日吉プール(体育研究所提供)

このような経緯で、泳力テストの不合格者は夏休み中10日間にわたって水泳のシーズンスポーツの授業に参加していた。水泳の苦手な人はどのような気持ちで授業に臨んでいたのだろうか。

池田さんは意外にも「シーズンスポーツは楽しかった。女子学生がたくさんいたので一緒に水遊びをしていた」と話す。大学に入るまで本格的に泳いだ経験がなかった池田さん。泳力テストを受ける時から50mを泳ぎ切ることは諦めていた。だが、どれか一つはシーズンスポーツを受ける必要があったので、あまり嫌ではなかったと言う。

水泳のシーズンスポーツは、体育会水泳部の協力で実施されていた。しかし、受講者数がとても多かったため、個別に泳ぎ方を教えてもらえたわけではなく、周りの学生と一緒に遊んでしまっていたのだと語る。

50mを泳ぎ切れなくても、出席をすれば単位をもらうことはできたそうだ。シーズンスポーツの授業を通じて泳げるようになった人ももちろんいたが、池田さん自身は10日間の練習で泳げる距離はあまり変わらなかったと話す。「塾生皆泳」の到達度は人それぞれとはいえ、楽しい雰囲気で授業は進められていたのだろう。

この「塾生皆泳」だが、1993年から体育が必修ではなくなり、水泳必修を行うことができなくなってしまった。現在は、選択科目として水泳の授業が行われている。泳ぎが苦手な人にとっては、安堵の気持ちがあるだろう。しかし話を聞いてみると意外にも楽しそうな内容で、水泳が苦手な私にも出来そうだと安心した。