未知なる他者、世界に対する「正しい読み」は存在するだろうか。存在するならば、それはどのようなものか。デリダ(仏、1930―2004。代表作に『声と現象』、『エクリチュールと差異』ほか多数)の主要概念「脱―構築」に依拠して考える。慶應義塾大学文学部哲学専攻の斎藤慶典教授に話を聞いた。
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― デリダの「脱― 構築」(De0-construction)について。
「脱―構築」は物事に「本質や根拠がある」「絶対的な見方がある」とする考え方への抵抗で、その性質上「脱―構築」自体は何らかの定義や本質や根拠を持ちません。ある対象の本質を定義するということは、対象が理解可能であることを前提とします。「ライオンはその見かけほど怖いものではない」と知れば我々は安心できますが、それはそう理解することで相手を「自分が対処できる範囲内に位置づけられる」からで、これは一種のエゴイズムです。「私は○○である」というように同一性をもった理性的な自己があることを前提として語るのも本質規定の一つであり、「脱―構築」の対象になります。何かを「脱―構築」する主体は、いわゆる理性的主体ではないわけです。
―「脱―構築」の場では「正義」ということが念頭におかれています。
脱―構築において、「絶対に可能だ」と言い切る根拠はない点に注意してほしいのですが、その上で正義や善が可能だとすれば、それは「他者のために」ということではないか。本質規定することで他者に対する「認識の暴力」が働いている可能性があるのなら、理性に基づき本質を把握する特定の仕方を回避せねばなりません。これが「脱―構築」の「解体」という側面です。
でも、理解を拒否し解体するだけでは、「無理解の闇の中」で更に深刻な暴力が行使されかねません。解体しながらも自分が関わっている他者と向かい合うためには、少しでも「よりよい=より他者のためになる」別の理解を提示(構築)しなければなりません。しかし「絶対に正しい理解」があるわけではありませんから、解体と構築に終わりはないのです。「脱―構築」と相対主義を区別するのはこの点です。
―確固不動な読みによる「認識の暴力」の例として何が挙げられますか。
ナチス・ドイツ政権下では、ユダヤ人であった人物は「ユダヤ人である」と固定されて収容され、「父/母」や「看護師」、「スポーツを好む人」のようにその都度「別の仕方で」存在する可能性を奪われました。学問でも、テクストには正しい読み方があり、違う読み方は誤読とされますが、その根拠は暗黙の前提を露わにする事で解体されうることをデリダは示しました。常に「別の仕方で」ということが可能なのであり、そしてそれは「よい」ことなのです。
―我々に問われていることがあるとすれば。
デリダは「すべてはテクストである」と言いました。情報化による膨大なテクストの氾濫の中にあって応答を待つ他者は無数におり、かすかな他者の声をいかに聴きうるかが問われています。テクストの氾濫はむしろ、そうした他者の声を聴く可能性を更に開くものと捉えるべきでしょう。
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本連載が提示し得たことがあるとすれば、それは何らかの問いに対する解答それ自体では無く、新たな見方を模索する意志のための梯子に過ぎない。その梯子が、誰もが足を掛けることを要請されているものだと信じながら、本稿を締めくくりたい。
(坂本玄樹)