お話を伺った久富さん、川村さん、里見さん
お話を伺った久富さん、川村さん、里見さん

戦後70年という節目を迎え、塾生新聞では慶應から見た戦争の記憶を連載形式でたどっている。私たちの先輩は何を見ていたのか。戦争とは何なのか。この国から当時の面影が消えていく今だからこそ、改めて考えてみたい。

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今回は、1943年に始まった「学徒勤労動員」を経験された最後の世代である、久富保さん、川村幸男さん、里見洋一さん(昭和25年法律学科卒業)に、勤労動員を中心にお話を伺った。

3人は昭和20年、慶應義塾の予科に入学した学年にあたる。戦争のさなか、4月1日に入学式は行われず、クラスごとに勤労動員に駆り出された。勤労動員とは、中等学校以上の学生が、戦時下の労働力不足を補うため、食料や軍需産業などの生産活動に従事させられたことである。

動員がかけられてからは、予科の授業は月に1回程度でほとんど学校に行くことができなかった。川村さんと久富さんは普通部からの内部進学だが、里見さんは予科から慶應に入学した。「勤労動員は出身中学校のままだったので、7月頃までキャンパスに行くことはなかった。慶應に入学したという実感もありませんでした」。

勤労動員に励む学生の様子
勤労動員に励む学生の様子

イラストは、久富さんの奥様が描いてくださった、普通部生が土木作業に出動する朝の光景だ。大きな荷車に、シャベルなどを積んでいる。麻布で出来た服を身につけ、足には脛当ての役割を果たすゲートルを巻いた。また作業中も普通部の帽子を被ることで、慶應生としての誇りを示していたという。

勤労動員の仕事に、貯水槽堀りと防空壕堀りがあった。重要施設を保護し、周辺への類焼を防ぐ目的で行われたが、そのために家を取り壊されたり強制的に疎開させられた人もいた。立派な庭園を取り壊すのは「もったいない」という気持ちもあり、心苦しくもあった。

「国家の為に頑張らなければ」と、平日の朝9時から夕方5時まで一生懸命に取り組み、寒さ熱さを気にしている余裕はなかった。作業の休憩時は、地べたに座って昼ご飯を食べていた。親は息子が勤労動員に励む様子を聞き、涙した。

勤労動員の給料は、月給50円程度。学生の小遣いを遥かに上回る額だが、当時は買うものも娯楽もなかった。

また、動員以外の学生生活も振り返ってもらった。富士の裾野の兵舎で、3泊4日程度、射撃訓練を含む軍事演習を行ったことがあった。当時武器庫だった綱町グラウンドに招集され、夜真っ暗になるまで演習に励んだ。教練の取り組み方で成績が決まるため、学生も皆必死だった。

戦争が終わって授業が再開されたのは、1945年の9月頃。約半年間は日吉の教室がGHQによって占領されていたため使えなかった。机や椅子などはなく、立ったまま授業を受けたことも、印象深く記憶に残っているという。

6月23日の沖縄の地上戦終戦についても伺うと、3人とも戦後まで知ることはなかったという。戦時中は情報が閉ざされていたのだろう。

3人のお話は尽きることなく、細かい描写など、記憶の鮮明さに驚いた。過去を振り返る中で、同じものを共有している塾員たちの、絆の強さを感じた。
(玉田萌)