満州事変が勃発するおよそ5カ月前の、1931年4月15日。東京市芝区役所(当時)公会堂に130名の女学生が集まった。共立女子薬学専門学校、のちの共立薬科大学の記念すべき第1回入学式である。共立女子薬学専門学校は、当時芝・麻布共立幼稚園の園長を務めていた小島昇の、教育に対する強い思いから誕生した。小島は、慶應義塾出身。つまり、我々塾生の大先輩にあたる。

共立女子薬学専門学校を創立したころの小島昇については、昨年11月と今年3月にそれぞれ発行された共立薬科大学広報誌『はなみずき』の第94号・第95号に詳しい。それによれば、小島は卒業後、慶應時代の恩師から芝・麻布幼稚園の経営を任された。当時の幼稚園は極めて限られた家の子供のみが通うことを許された場所であった。

以来、小島は園舎を活用した教育事業について考えはじめた。父を早くに亡くした小島と母の小島つなのもとには夫を亡くした女性がよく出入りしていたという。女性が自立して生きるのは辛い時代。小島は女子教育について真剣に考えた。

戦前、薬学教育は女子に適していると言われていたが、『共立薬科大学四十年史』(1970年刊)によると、当時日本に存在していた女子薬学専門学校はたったの2校。小島は女子教育、とりわけ薬学教育の必要性を痛感していたという。

幼稚園の父兄や卒業生らの協力を得た小島は、幼稚園の所在地に薬学を教える専門学校を建てることを決めた。文部省から設立認可が下りたのは1930年11月26日。のちにこの日は共立薬科大学の創立記念日と定められている。小島は初代理事長として薬学専門学校の経営に携わることになった。

開校後、最初の1年間は幼稚園の園舎を借用して授業が行われた。翌年、銀行家だった牧野元次郎の強力な援助もあり、鉄筋コンクリート3階建ての第一校舎が竣工。新しい校舎への学生達の期待は大きく、『四十年史』では、このときの様子を「その喜び方は一通りではなかった」と書いている。

初代理事長の小島昇は共立女子薬学専門学校が開校してからわずか3年後の1934年4月21日に死去した。専門学校設立のために文部省との調整を続けていた頃から、結核を患っていたという。

その後戦争を経て、GHQの占領下、薬剤師資格の取得には4年制の大学を卒業せねばならないことになったこともあり、専門学校は大学へ昇格し共立薬科大学と名前を変えた。

当時、男女共学化の要請もあったようだが、「創立者の意志が女子の科学者や薬剤師の養成にあったことから、とにかく女子だけを教育していくことに決定された」(『共立薬科大学七十年史』2002年刊)。共立薬科大学が共学化されるのは1996年になってからのことだ。

今年4月、共立薬科大学は慶應義塾と合併してその名を消したが、「共立」の文字はキャンパスの名前に残った。学生時代を過ごした大学と、自らが興した大学が一緒になるのを、小島昇はどのような思いで見ただろうか。(敬称略)

(KEIO150取材班)