春の到来を告げる桜。誰しもがこの花を見たことがあるはずだ。しかし、なぜ桜が春を象徴する花となったのかを知る読者は多くないだろう。国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所に所属し、九州で「針葉樹とサクラの保全」をテーマに研究を行っている植物学者の勝木俊雄氏に日本に生息する桜やその歴史について話を聞いた。

日本には野生種としては10種の桜が存在する。その他にも人の手によって作られた栽培品種がある。国内に生息する野生種はすべて春に開花する。桜は他の広葉樹と比べて早く開花する。これは、桜が他の種の開花時期とずらすことで、効率よく受粉をするためである。それに対し、春以外の季節に花を咲かせる桜も存在すると勝木氏は話す。「栽培品種の‘冬桜’や‘十月桜’は冬と春にかけて長い間咲き続けます。これは本来春に咲くはずの桜が間違えて秋に咲いてしまう狂い咲きという現象に由来します」

‘染井吉野’の急速な広まり

私たちが公園などで見かける桜の多くは‘染井吉野’である。‘染井吉野’は母をエドヒガン、父をオオシマザクラとして作られた栽培品種の1つである。ここで注意しなければならないのはエドヒガンとオオシマザクラの種間雑種のサクラすべてをソメイヨシノと呼ぶことだ。これに対してシングルクオーテーションで括った‘染井吉野’は数あるソメイヨシノの中に1つの栽培品種である。‘染井吉野’の起源は現在の東京都豊島区にあった染井村。江戸時代から「吉野桜」という名で栽培されていたと考えられており、明治時代になって日本全国に広まったという。全国に普及した要因として勝木氏は美しさと成長の早さを挙げた。「江戸時代以前にはヤマザクラが花見で鑑賞されていましたが、ヤマザクラは花を咲かせるときに赤い葉も同時に姿を見せます。これに対して‘染井吉野’は花が咲くころにはまだ葉が広がらないので花がよく目立ちます。また、‘染井吉野’は成長が早い上に接木によって増殖するクローンなので同一規格で高品質な桜を大量に生産できたことも大きな理由です」と語る。接木とは増殖したい木の枝を台木につなぎ合わせて成長させる技術であり、これにより同じ遺伝子を持つクローンを増殖できる。上記の理由に加え、新しい首都東京で誕生したということも相まって‘染井吉野’は急速に日本各地に広まったという。

梅から桜へ 春の花の移り変わり

「現在でこそ春といえば桜、といった認識は日本人に根付いていますがもともと春の花といえば梅でした」と勝木氏は話す。中国には梅や桃の花を観賞する文化が根付いており、中国文化を受容していた奈良時代では梅や桃の花を花見の際に鑑賞したという。現在の桃の節句も、中国の年中行事であった上巳の節句に由来する。変化が起きたのは平安時代の国風文化が成立したころである。遣唐使が廃止され、中国文化を受け入れるのではなく、日本独自の文化が栄えたこの時代に桃や梅に加えて桜も花見で鑑賞する対象になった。この変化を象徴するエピソードは京都御所の桜であると勝木氏は語る。「京都御所の中心にある紫宸殿の庭には西側に橘が、そして東側に桜が植えられていてそれぞれ『右近の橘』、『左近の桜』と呼ばれています。この左近の桜は、以前は梅だったのです。平安時代に桜が評価されるようになってから植え替えられており、桜が梅に取って代わって春の花の地位を確立したことを端的に象徴しています」

現在のように庶民に花見が定着したのは江戸時代のこと。物見遊山にいく人が増えて、桜が庶民の間で人気を博していったという。さらに、庶民の間での桜の人気を受けて江戸幕府は飛鳥山や御殿山に桜を植樹して彼らが花見を行える場所を提供した。

桜には植えた人の思いが込められている

勝木氏は桜の魅力がその歴史的な側面にあると考えている。「野生種、栽培品種ともに長い歴史を経て今、私たちの前で咲いています。野生の桜は人類が日本列島に定住する前から繁殖してきました。人々が植えた桜には植えた人の様々な思いが込められています。特に、栽培品種は人々が何代にも及んで増殖を繰り返してきました。こういう意味で桜には必ず歴史があるのです。桜を見るときはただ、きれいだねといった感想を抱くに留まらずそれぞれの桜が持つ歴史にも思いを馳せてみてください。そうすれば今まで見えてこなかった桜の興味深い一面が見えてくると思います」

森林総合研究所 勝木俊雄氏

 

(櫻井優悟)