《甲子園という魔物》(第6回)審判人生の終わり、頭よぎった 甲子園静まり返ったサヨナラボーク 元高校野球審判員・林清一さん

甲子園という魔物

「名審判」を夢見て

「名前を覚えられない審判が名審判なんだ」

観客が審判員の名前を調べるのは、判定を誤った時だけだ。正確なジャッジを下せる審判員は、その存在を知られない。尊敬する先輩審判員で、後年に野球殿堂入りを果たした郷司裕さんに常々言い聞かせられていた。

駆け出しの頃は失敗の連続だった。審判員としてのデビュー戦は、東京六大学リーグ。容赦なくヤジを浴びせられた。

「林! 下手くそ!」

心ない言葉に、泣きながら帰ったこともあった。

91年に初めて甲子園の舞台へ。大会期間中は大阪・肥後橋の8人部屋で他の審判員と寝食をともにした。担当試合日は朝5時に起床し、阪神電車に乗り換えて甲子園球場まで通った。

帰りの電車の中で、その日の試合を振り返ってはミスジャッジを反省する日々。「完璧に裁けた試合はとうとう一つもなかった」と苦笑いを浮かべる。

「サヨナラボーク」の翌日 自分の写真が一面に

「サヨナラボーク」判定後の囲み取材では、取材陣に激しく責め立てられた。

「あんなに良い試合を審判が終わらせていいのか」「ボークを取らないという選択肢はなかったのか」——。

翌朝、甲子園球場に向かういつもの阪神電車の中で恐怖を覚えた。乗客が広げるスポーツ紙、さらには一般紙までもが前日の試合を一面、しかも写真付きで報じていた。

しかし、判定に疑問を呈するような記事はなかった。実は前日の夜、スポーツ番組で原辰徳さん(前巨人監督)が藤田投手の行為は「明らかなボーク」であることを解説していた。高野連への批判の電話はたちまち審判への励ましに変わった。ある全国紙は〈投手をかわいそうと思う気持ちとは区別すべき〉と言い切った。

林さんの名前が世に知れ渡ることはなかった。

「甲子園の魔物」の正体

浜田(島根)・和田毅投手(現ソフトバンク)と秋田商(秋田)・石川雅規投手(現ヤクルト)の投げ合いなど、数々の名勝負を審判員として見届けた。

2002年夏、主審を務めた智弁和歌山(和歌山)— 智弁学園(奈良)の「智弁対決」では、珍しいハプニングも。

「ユニフォームがほとんど同じで混乱した。智弁和歌山の三塁ランナーだと思った選手が智弁学園の三塁コーチャーで、一瞬敵と味方の見分けがつかなくなった」

試行錯誤で1200試合以上を裁き、12年に審判業から勇退した。

「甲子園のマモノの『マ』は、すき間の『間』」と話す。

審判員は、少しでも迷いを見せてしまうと信頼を失う。ためらいが観客に伝われば、ジャッジの正当性が疑われかねない。

20年前の「ボーク」宣告は、一人の審判員の信念の表れだった。戦いを終えた「ルールの番人」は、人知れず甲子園を去っていった。

(広瀬航太郎)

林清一(はやし・せいいち)

1955年5月25日生まれ、63歳。高校時代は早稲田実高のエースとして活躍するも、甲子園出場はならなかった。

早大、大昭和製紙を経て、大学の先輩からの紹介で東京六大学リーグの審判員に。都内にある父親の建設会社に勤めるかたわら、活躍の場を甲子園大会にも広げ、大会期間中は東京―大阪間を最大5往復して審判員を務め上げた。

2004年アテネ五輪の野球競技では、日本人として唯一の審判員に選ばれ、決勝で主審を務めた。

11年夏の甲子園大会準決勝・作新学院(栃木)— 光星学院(青森)を最後に、甲子園大会の審判員を引退。現在は、建設会社の代表取締役や東京六大学リーグの審判技術顧問など、幅広い分野で野球に携わる。