我々は今、高度なネットワーク社会の中にいる。朝の通勤ラッシュの電車内であたりを見渡せば皆、小さな液晶画面を見つめている。情報技術はどのような変遷を遂げてきたのだろうか。立教大学社会学部メディア社会学科の木村忠正教授に話を聞いた。
 
近年、「デジタルネイティブ」という言葉がよく使われるようになった。1‌9‌8‌2年にCDプレーヤー、1‌9‌8‌3年には任天堂からファミリーコンピュータが発売されるなど、1‌9‌8‌0年以降に生まれた人々にとっては、生まれた時からデジタル機器と生活することが当たり前であり、こう呼ばれるようになった。
 
昭和の末に生まれたデジタル機器の技術は、インターネットの登場によりすぐさま駆逐されていった。インターネットの根幹とも呼ぶべきワールドワイドウェブ(通称WWW)が誕生したのは1‌9‌9‌1年であり、平成の開始とほぼ等しい。また1‌9‌9‌5年には携帯電話が庶民にも普及するようになった。昭和と平成の大きな差は、インターネットと携帯電話の爆発的な普及にある。インターネットが普及する前には、情報が発信されるのは新聞の朝刊夕刊やテレビのニュース番組のみだった。しかし、現代では四六時中情報が発信され続けている。このことが四半世紀程度の平成という時代を激動のものにした。
 
デジタルネイティブといっても一枚岩ではない。木村教授は、ライフサイクルのどの時点で情報技術に出会ったかによって、グループ分けされるという。昭和生まれのデジタルネイティブにとっての情報技術は通信量が限られており、オンラインはあくまでも通常のオフラインの生活の追加に過ぎなかった。
 
しかし今はどうだろう。オンラインでのみ交流のある直接会ったことのない人と親しくなる、実生活での友人を「リア友」と区別する、などオンラインがオフラインの生活と同等、もしくはオンラインの方が主になっていることすらある。現在ではSNSに画像をアップロードするためにオフラインの行動、つまりはどこかに外出するといった行動も増加してきている。平成世代のデジタルネイティブにとっては「モノ消費」よりも「コト消費」が主流になってきたのだ。
 
さて、情報技術の発達はどのような問題を生むのだろうか。昨年、オックスフォード英語辞典はWord of the yearに「ポスト・トゥルース」を選出した。また米国大統領のドナルド・トランプ氏は、メディアに対して「オルタナティブ・ファクト」を主張した。このことからわかるように、デジタル技術が発達した現代では、情報が偽なのか、真なのかの区別がつかなくなってきている。情報の真偽よりも、その情報を信じるか信じないかという問題に発展してきているといわれている。
 
また、ネット世論も大きな問題となっている。以前はマスメディアが一方的に情報を発信するのみであったが、ネットワークの発達により視聴者である庶民がネットワークに自分の意見を発信するようになった。ネット世論だからといって内容が間違っているとは一概にいえない。しかし、一部の偏った意見を持った人々が繰り返しネットワーク上に発信することによって、次第にその意見が多数派の意見として捉えられてしまい、実際の多数派である正当な意見が沈黙されることにつながる。こうしてネット世論は過激だと思われてしまうようになる。
 
最後に、情報技術の未来はどうなるのだろうか。米国企業は、研究開発費に一兆円規模の額を投資して情報技術のさらなる発展を目指している。ウェアラブル端末やAIの発達など人とインターネット、そしてロボットが共生する世界になることはまちがいないだろう。
 
さらなる情報技術の発展が期待される中で、我々はより激動の日々を過ごすようになる。無数の情報の何を信じるか、信じないか、情報とどう向き合うかを慎重に考えていかなければならない。
(高橋千瑛)