熊本県上益城郡益城町。熊本市のベッドタウンとして人口が増加していたその町は、地震の被害が最も大きかった場所のひとつとして知られている。地震から1年、益城町は今どのような状況なのか。町役場で復興支援コンサルタントをしている大沼健太郎さんに、町の中を案内してもらった。

熊本市内とは異なる「被災地」の姿

熊本駅からバスで1時間ほど。アスファルトの割れた道を進んでまずは町役場に向かうも、そこは震災で渡り廊下が破損し使えなくなっていた。地震の甚大さを物語る渡り廊下の大きなひび割れに、復興までの道のりの遠さを痛感した。これまで映像でしか被害を見たことがなかったが、前日に訪れた熊本市内では目に見える震災の爪痕があまり見られなかっただけに、益城町で目にした「被災地」の様子に言葉を失った。

益城町は半年ほど前に避難所を閉鎖した。現在は住民33100人のうち、約7600人が仮設住宅で暮らしている。今回の取材では、町の中でもとりわけ被害の大きい木山地区を見て回った。倒壊した住宅の多くが解体されており、不自然な空き地が目立つ。かつての住宅地には比較的新しい建物だけがまばらに残っており、耐震の重要性を実感させられた。

元々はまっすぐだったという道路は、断層や地盤沈下でがたがただった。ひび割れも多く、注意しないとすぐにつまずいてしまう。大通りには車通りがあり、住人の方ともすれ違ったが、特に子供やお年寄りにとって暮らしやすい場所とは思えなかった。

この地区には住民の精神的支柱だったという神社や寺がある。だが我々はもはや、元の姿を想像することが出来ない。寺はその全てが倒壊、解体され、入口に寺号標が残るのみ。神社は鳥居が参道に倒れこんでおり、本殿もつぶれたまま放置されていた。

忘れられない景色がある。高台の上から眺めた墓地だ。地震によりばらばらになった墓石が文字通り散乱しており、もはや誰の墓だかわからない。足の踏み場がなく、とても入れる状態には見えなかったが、それでもなお、いくつも花が手向けてあった。今でも住人の方が定期的に訪れている証だ。日常的に墓参りをする習慣がなかった記者にとって、それは衝撃的な映像だった。

政教分離の原則により、重要文化財以外の宗教施設に政府機関の補助金を出すことが出来ない。そのため寺社や墓地は改修が出来ず、今も放置されたままなのだという。歴史の知識としてこの原則が出来た経緯は知っていたが、そうはいっても住人の方の心情を思わずにはいられない。

被災地に芽生えた希望

少しずつ改善してきたこともある。例えば学校給食の復旧だ。益城町の給食は、町唯一の給食センターから全ての学校に運ぶ仕組みだったが、震災によってセンターが停止してしまった。その後児童は給食の代わりにコンビニ弁当を食べる生活を余儀なくされていた。現在もセンターは止まったままだが、来年度からは近隣の自治体から給食を分けてもらう手はずがついた。これにより、児童は約1年ぶりに温かい給食を食べられるようになったのだ。

益城町での取材の後、バスに乗って商工会等が主催する復興市場・屋台村を訪ねた。ここは震災によって店舗を失った地元商店街がフードコート形式で運営している地元の食堂だ。昼食の時間になると、作業着姿の方が入れ替わり立ちかわり訪れる。私たちも実際にそこで昼食を取ったが、どの料理もおいしいだけでなくリーズナブルで、人気の理由を実感した。復興商店街の中には飲食店だけでなく、理髪店などもあり、地元の生活を支えているのが想像できる。このように地元に雇用が生まれれば、復興への足掛かりになるだろう。

知らない、をやめてみよう

今回、被災地を訪れて実感したことは「知らないこと」の罪だ。熊本で暮らしていない私たちは、被災地に暮らす人々が感じている本当の苦労を知ることは出来ない。だからといって、他人事でいてはいけないだろう。

「熊本の現状が報道されなくなったことで、被災地の大変さが忘れられていくように感じる」と大沼さんは語る。熊本地震から1年たった今、もう一度、その現状を知ることから始めたい。
(小宮山裕子)