戦後70年という節目を迎え、塾生新聞では慶應から見た戦争の記憶を連載形式でたどっている。私たちの先輩は何を見ていたのか。戦争とは何なのか。今回は、南方の現地で戦った塾員である新井裕さんにお話を伺った。

逗子の診療所の前で
逗子の診療所の前で

「飛行機に憧れていました」
新井さんは、しっかりとした声で当時の体験を語った。

大切な人の為に国を守る
学校を中退し、16歳で少年志願兵になった。立川陸軍航空学校の第13期だ。パイロットになりたかったが、体力試験の際に運悪く肺炎にかかってしまい、整備部門に進むこととなった。

「あの頃は、お国のためにという気持ちが強かったです」。それが当たり前だったという。ただし、現代の人がイメージする過激な国家主義思想ではない。大切な家族や友人を守るためには、戦うほかなかったのだ。

下士官として軍に配属されたのは昭和19年の春、終戦の1年前である。報道規制はあったが、国が劣勢であることは新兵でも感じ取れたという。配属先に南方の第一線を希望したところ、インドネシアのアンボン島に行くことになった。

戦場まで過酷な道程
二式重戦という戦闘機にパイロットと2人で乗り込み、名古屋から出発した。戦地に着くまではのんびりできると思っていたが、そうはいかなかった。エンジンが故障して宮古島に不時着陸したり、台湾付近で積乱雲に巻き込まれたりと、予想外のトラブルが連続したのだ。

だが、戦場の苛烈さはそんなものではない。アンボンに襲来したアメリカ軍の戦闘機と交戦し、撃ち落とされてしまう。一命を取り留めたものの、頭に大やけどを負い戦線を離脱した。退院後に本国帰還命令が出たのは良かったが、帰路のマニラでまたもや空襲に遭った。戦闘機に乗った期間自体は長くないが、何度も命の危機を経験したのだ。レイテ島で輸送機を修理し、何とか帰国できた。

兵隊の次に目指したもの
その後は四国沖の偵察の任につき、そのまま終戦を迎えた。「そのときは泣きましたよ。負けて悔しいし、どうしていいか分からないでいました」。

パイロット以外に、もう一つ憧れているものがあった。それが獣医だ。警察官(下士官は警部補に転職できた)になろうとも考えたが、幼少期からの夢は強かった。

このままで仕様がないから学校に行けと、父親が背中を押してくれた。「大学に行けと言われても、(受験)資格がないんですね。中学4年(5年制)でやめているんですから」。母校に残っていた恩師を頼り、遅れた一年を取り戻したが、英語には苦労したという。戦前は「敵国語」を習う機会がなかったのだ。

半年間の勉強の末、無事に慶應の獣医畜産専門学校に入学できた。昭和24年に廃止になっているので、存在を知らない塾生も多いだろう。新井さんは幻とも言える「慶應の獣医」なのだ。

「戦争は悲惨ですね。’(自分も)海で落とされて、大火傷して。空襲のときには大怪我した人や死んだ人を見ましたしね」。直に戦地に赴いた経験があるからこその率直な言葉には、重みがあった。

一方で、国を守るという志の大切さにも言及する。戦争をしないのと、国を守る術を持たないのとは違う。最近は、やみくもに戦争反対だけを主張する動きも目立つ。戦争という行為以外でどう「国を守る」のか、今の日本人は考えられていないように見えるという。

御歳90になろうとしているが、新井さんは元気に獣医を続けている。今でも塾生時代の仲間と会うことがあるという。診療室には義塾の三色旗が飾られていた。
(玉谷大知)