【塾員インタビュー】宇宙飛行士 向井千秋氏

■ 向井千秋 (むかい ちあき) 1952年群馬県館林市に生まれる。1977年慶應義塾大学医学部卒業。1985年より、NASDA(現JAXA)にFMPT/STS-47ミッション(NASAミッション名「スペースラブ-J」)の搭乗科学技術者として選定され、以後も宇宙飛行士として活動を続ける。2012年、JAXA宇宙医学研究センター長に就任。2014年、宇宙開発利用部会 国際宇宙ステーション・国際宇宙探査小委員会委員に就任。
■ 向井千秋 (むかい ちあき)
1952年群馬県館林市に生まれる。1977年慶應義塾大学医学部卒業。1985年より、NASDA(現JAXA)にFMPT/STS-47ミッション(NASAミッション名「スペースラブ-J」)の搭乗科学技術者として選定され、以後も宇宙飛行士として活動を続ける。2012年、JAXA宇宙医学研究センター長に就任。2014年、宇宙開発利用部会 国際宇宙ステーション・国際宇宙探査小委員会委員に就任。

明日を待ち遠しく思える人生を

向井千秋氏は1994年のスペースシャトル「コロンビア号」に搭乗し、日本人女性初の宇宙飛行士となった。幼い頃、テレビや本などで彼女の姿を目にした塾生は少なくないだろう。彼女はどのようにして宇宙飛行士となったのだろうか。そこでどのような経験をしたのだろうか。 (田島健志)

32歳で拓けた宇宙への道

向井氏の成長は宇宙開発の歴史に重なっている。9歳のときにガガーリン、12歳のときには女性初の宇宙飛行士テレシコワが宇宙へと飛びたち、高校生のときにはアポロ11号が月面に着陸した。ただ、日本には60年代の後半に宇宙開発事業団(JAXAの前身)ができるまで宇宙機関はなく、宇宙飛行士へのキャリアパスなどなかった。月面着陸と聞いても、それは大国の、軍人がやっている話で、一般人には関係ないと思っていた。当然、彼女には宇宙飛行士になるなどという考えは毛頭なかったという。当時は、弟の足が不自由だったこともあり、病気で苦しむ人の役に立ちたいと医者を目指していた。在籍していた慶應女子高校に通いながら、予備校で勉強を重ね、一般入試で医学部に入った。

宇宙への道が拓けたのは32歳のときだ。当時、彼女は病院で心臓外科のチーフレジデントをつとめていた。ある当直を頼まれた日の翌朝、医局でコーヒーでも飲もうと思って新聞を広げると、日本の宇宙飛行士を募集すると書いてあった。写真も何もない募集だったが、体が震えるほどの感激を覚えた。「日本人も宇宙に行ける時代がきたの?そういえば、私も昔テレシコワだとかガガーリンだとか、アポロの時興奮したよな」と宇宙への夢を拾った思いがしたという。

すさまじい倍率をくぐり抜け、実際に宇宙の仕事に携わってみると、一番大変なのは宇宙への飛行チャンスを得ることだった。彼女が宇宙飛行士になった時代は「宇宙で何をするか」がすでに重要視されていた。

向井氏は科学飛行士であるため、スペースシャトルに搭乗するには宇宙での実験を望む研究者の信頼を得る必要があった。彼らのもとを訪れるときには、まず論文を読んで専門用語やその意味を勉強し、自分ならあなたの研究をきちんと宇宙で達成できると納得してもらえるようにしたという。

リスクを恐れず前進を

そうするうちに新たなものの見方ができるようにもなった。宇宙から地球をみるという夢は9年目にしてようやく叶ったが、自分の生まれた星を外から見ることで得たいと思っていた広い視野は、宇宙に行く前に獲得できていた。

宇宙飛行士としての仕事を通して2度のスペースシャトル事故を目撃した。しかし恐怖は感じなかったという。無謀なものでない限り、リスクをとって自分のやりたいことをやらなくては前に進めない。医者を経験していた彼女は病院で生まれ、病院で亡くなっていく子どもたち、夢半ばで病気に倒れた人たちを見てきた。自分のやりたいことがあって、体が、精神がそれをサポートしてくれるならそういう人たちのためにもやってみるべきだと彼女は言う。

「明日が待ち遠しいと思える人生を送りたいし、そういう人が増えてきたらハッピーな世の中になるのではないか」。自分の望む自分になるために努力を重ねひたむきに走り続けてきた彼女の言葉は強い。義塾の理念「自我作古」の体現者はこれからも我々の記憶に残り続けることだろう。