時代を先読みする ~学生新聞の歩み~

学生運動とは何だったのか

「慶應塾生新聞会」が創立された1969年。「学生運動」が常に騒がれていた時代であった。一体どのような状況であったのか。「慶應塾生新聞」の過去の記事を探って検証する。(八島卓也)
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1969年は「大学改革」という問題の最盛期だった。難しい試験を突破して入学しても、期待していたほどの授業は受けられなかった。また何年も使い続けられたノートをただ教授は読むばかり。そのような状況は慶應だけでなく各大学共通のものだった。そこで「大学の管理運営の問題を改革しよう」といういわゆる「大学改革」につながった。

そして「自治体制の確立」を願う声も大きくなった。自治体制の確立とは、塾生内部による自治確立のことである。創刊当時、義塾の自治会は本来の機能を果たしていなかった。塾生自身、自治会には無関心で、また自治会執行部も塾生の世論を無視して独走し、かえって塾生を遠ざけてしまう状況であった。【1969年4月号】

さらに「大学立法」に関する動きが最高潮に達する。大学立法とは大学の運営に関する臨時措置法のことだ。学園紛争の数は増加し、学生が暴徒化するなどの社会問題から、政府が大学への干渉を目的として打ち出した法案であった。それに対し、日吉自治会連合(日吉各学部自治会の連合組織)が「大学立法粉砕」を唱え、学生大会が1969年6月に開かれる。日吉キャンパス中庭に約4千人もの群衆が集まった。そして翌月、日吉キャンパスをバリケードによって無期限に封鎖する「日吉封鎖」が行われた。大学立法は「教育の帝国主義的再編をめざすもの」として反対され、そのために強硬派は大学を封鎖しなければならないと考えたのだ。しかし連日授業も行われないままストライキが続けられると、不安を感じて運動に反対する者も出てきた。【1969年7月号】

同年10月13日の早朝、教職員が日吉キャンパスを封鎖していたバリケードを解除した。しかし、封鎖解除で問題が解決されたわけではなかった。卒業・進級を強調する声が高まるあまり、学費値上げ問題や大学立法そのものの問題は解決されないまま終わってしまった。【1969年11月号】

特に65年以降論点にされてた「学費値上げ問題」は71年1月に回避されるまで持ち越されていた。

まもなく慶大における学生運動は収束の一途をたどる。一部の塾生がクラス機関紙を発行して問題提起を起こすなど、学生運動継続を求める声もあった。だが、69年1月の東大安田講堂事件を機に全国的に終焉を迎えた。

これらの過去の記事からもうかがえるように、大学の状況は現在とは全く異なるものだった。学生運動による大学の被害総額は1億円にまで上った。

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塾新ODA 圧縮
塾生新聞会初代会員 織田一朗 氏
原点は「自分たちの新聞」

「不偏不党」という精神

1968、69年は慶大にとって激動の年だった。学生大会で日吉キャンパスは封鎖され、「全員留年」が一部でささやかれる。まさに異常事態だった。その混乱の中で新聞は不可欠な存在だったが、塾内に存在していた他の学生新聞はすで過激派の機関紙となっていた。

慶應義塾学生新聞会発足の前年の1968年、慶大では「米軍資金導入問題」で緊迫していた。医学部の研究に米軍資金を導入することに学生が拒否を要求した学園闘争だ。日吉をはじめ構内では長時間にわたる学生大会が連日行われたが、「大学生活を考える上での正確な情報が掴めない状況だった」。その中で「正しい情報」を報道しようと設立したのが慶應義塾学生新聞会だ。それが現在の理念である「不偏不党」にもつながっている。

自分たちのための新聞

慶應義塾学生新聞会発足において「自分達のための学生新聞」として趣意書をまとめた。「自分達」とは「一般塾生」のことを指す。決まった意見を押し付けずにあくまで読者に考えさせる目的が原点だ。

発足当時はわずか9名。新聞制作の右も左もわからないが、熱意だけはあった。「現役の新聞社員から編集技術を教わりながら何とか創刊号をつくりあげた、財政的に軌道に乗せるのも大変だった」。創刊当初はすぐに廃れてしまうなどと揶揄された。だが、目的に賛同する人が徐々に増えたことで新聞としても、会運営でも続いた。

当初は新聞1部10円で販売していた。「有料で読む価値のある情報だとアピールしたかったからだ」。

「大学改革」という問題

当時の社会問題にまでなっていた「大学改革」は塾生新聞にとって重要な編集テーマだった。「大学改革」とは各大学で学生が中心となって、大学の管理運営や教育の在り方を改革しようとした問題だ。

創刊号の1面は「慶應義塾これでよいのか」の見出しで始まる。その見出しが慶應塾生新聞の出発点となった。当時の編集会議は「毎回激論になった。論評執筆を巡っては意見の相違から辞めざるを得ない者もいた」。新聞制作にかけた会員それぞれの大きな責任感からだった。

時代を経て現在は塾内の大きなメディアのひとつになった。慶應塾生新聞も500号を迎える。イデオロギーに偏らないという当初からの理念を伝統として受け継いできたことが現在まで続く理由となったのだろう。

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▼米軍資金援助問題とは…1968年、慶大医学部が研究費として米軍から資金援助を受けようとした問題に端を発した学生運動。「戦争に肩入れするのか」と、塾生が中心となって資金援助に反対した。