【震災3年 大震災は終わらない】地元紙記者の抱えた葛藤―岩手県陸前高田市①

奇跡の一本松。現在はモニュメントとして保存されている。

岩手日報社 斎藤孟さん「震災から立ち直れていない住民とともに」


東日本大震災の発生から3年が経つ。もう3年なのか、それともまだ3年か。被災者の中にはまだ3年という感覚の人が多いだろう。家の建設をはじめ町が復興し、元の生活が戻るまでの道のりは長い。都市部での震災報道が風化しようとも、震災は過去ではなく今起きている問題だ。

陸前高田市では大津波が町の中心部に押し寄せ、死者・行方不明者数は1800人を超えた。町のシンボルだった高田松原も津波で失われ、現在は奇跡の一本松が残るのみだ。岩手日報社陸前高田支局の斎藤孟さんは震災の発生直後から被災地を取材し、5月で3年を迎える。斎藤さんは、震災を報道することへの葛藤を感じていた。

被災後の陸前高田に入ったのは震災から3日目であった。当時、県庁の取材担当だった斎藤さん。被害の激しい沿岸部の取材のため応援の記者として派遣される。最初に被災地に足を踏み入れたときのことを「戦争の跡のようだった」と語る。あちこちで燃えているがれき、家族を探す人々の姿。「何も言葉にできなかった」。知っているはずの陸前高田の町並みは全く残っていなかった。

高田松原の名所を見に、多くの人が立ち寄った道の駅
道の駅の建物の中。震災時の様子がそのまま残っている。

救助に当たる人や、がれきの中家族を探す人を見つけては取材にあたる。その中で「自分が今、記事を書くことに何の意味があるのか」―葛藤に苦しんだ。記事を書くことで失われたものが戻ることはない。家族や家を失った被災者を取材することの意味を被災地の過酷な状況を目の前にして考えた。

だが、それでも辛い境遇にある被災者を取材することをやめなかった。記者として被災者のためにしてあげられることは「話を聞くこと」だと信じていたからだ。もちろん無理に話を聞き出そうとはしない。しかし、辛さを打ち明けることで気持ちが少しでも楽になる人がいればという思いで、多くの人に話を聞き続けた。「話を聞いて記事にすることでその人に救いの手が差し伸べられるかもしれない。そして同じ境遇の人がいると知って救われる人がいるかもしれない」。そう斎藤さんは思っていた。

震災から2カ月後、斎藤さんは陸前高田支局に赴任した。毎日なるべく多くの人に出会うことを心がけている。地方紙の記者は行く先々で「今日はどうしたの」「久しぶりね」と声をかけてもらえる身近な存在だ。住民に「記事にしてくれてありがとう」と言ってもらえることが励みになる。住民の吉田和子さんは「困ったときやイベントを開くとき、斎藤さんがいつも取材に来てくれるから感謝しています」と話す。

なぎ倒されたままの松の木。その後ろには高台形成の工事が行われる。


現在、陸前高田では高台形成のための工事が始まったばかりである。山を最大で80m削り、宅地を造成する計画だ。住宅建設は早くて2015年、すべての住宅が建つには2016年までかかると言われている。土地計画に関するさまざまな規制があるために工事の着手には時間がかかった。

かつては町の中心市街地が広がっていた。


復興に時間がかかるほど、被災者それぞれの復興のスピードに差が出てきていると斎藤さんは感じている。被災直後は避難所や仮設住宅で皆が同じ復興の段階を歩んでいた。しかし、震災から3年が経ち、家を手に入れる人、町を出ていく人がいる一方で、いまだに仮設住宅で暮らす人もいる。結果として、物質的な面でも精神的な面でも復興のスピードに差が出てきてしまう。被災者が皆悲しんでいなければいけないわけではなく、震災から立ち直るのにはそれぞれの段階がある。被災者とひとくくりにすることはできないが、最終的に取り残されてしまうのは立場の弱い人だ。

だからこそ「震災から立ち直れないでいる人と一緒に歩んでいきたい」という思いがある。行方不明者を家族に持つ人や家族を助けられなかったと後悔する人がたくさんいる。また本当に立場の弱い人には話せる相手もいない。そのような人達の話を聞き、一回取材をして終わるのではなく何度も会いに行くことが、記者として住民のためにできることではないかと斎藤さんは考える。

昔から岩手日報は、町の人々に「日報さん」と呼ばれて親しまれてきた。地域にもっとも近い立場だから伝えられる情報がある。「記事を書くことで、社会を変え、動かすことができる」と斎藤さんは言う。被災地の新聞として、住民の声を伝え続けることが復興に繋がっていく。  (長屋文太)