情報メディア、ITインフラの飛躍的な発達により、私達は即時的で透明な関係性の構築に成功したように見える。一方で、時に氾濫する情報を前にした無力さ、関係の希薄さを感じることも否めないのではないか。

 「他者と関係すること」の基礎は言葉にある。今回は人間性の所以を徹底的に考え抜いた精神分析家ラカン(仏、1901~1981)の理論に依拠し、言葉を通じ他者と共存することの本質を考える。精神科医の斎藤環氏に話を聞いた。

   *  *  *

―ラカンによると「コミュニケーションとはそもそも不可能な出来事だ」ということになります。どういうことですか。
 それは、完全なやりとりというものが根本から幻想だということ。言葉は即座にその意味が伝わる『記号』では無く、文脈の中で初めて意味を持つもの。例えば『あれをとって』というような曖昧な命令は、コンピュータには理解できない。なぜなら、コードが定まっていないから。人間ならばその時々の文脈に基づいて反応できる。 
 だが、文脈が必要だということは逆に言えばやりとりそれ自体が不確定なレベルに留まっているということ。映像など視覚的な情報も、結局は言葉があるから理解できるという意味で、人間のやりとりは全て不確実な状態にある。
 現代社会には情報幻想とコミュニケーション幻想という2つの幻想がある。『あらゆるものが情報化できる』、『他者と容易に分かり合える』というものだ。それらを無条件に善だとする現状が事態を複雑にしている。

―人によって情報の読み方が違うことで、受け取る内容そのものも変化するならば、情報の真偽性や一見明らかに見える善悪の価値基準も揺らいでしまいます。
 ラカン流に言えば『言葉を介する限り全ては虚構だ』ということになるが、一方で認知科学や脳科学のように『人間のあらゆる認識には生理的裏付けがあり、その限りで「現実」である』とする立場もある。そこで重要なのは『リアル(現実らしさ)とは何か』ということ。万人にとって自明な特権的現実は無いが、現実に存在しえないアニメの世界のキャラクターをリアルな存在として認識するように、我々は根拠の有無を問わずに『リアルさ』、『うそ臭さ』を認識する。現実と虚構が程度の差に過ぎない事実を受け止め、情報レイヤーの認識力を高めることで、現実らしさに対するある種の高度な判断はできるようになる。

―思考、判断の基盤としての文化が崩れつつあると危惧する見方があります。
 文化が絶えず変容してゆくこと自体は全く問題ない。どれだけ情報源が増えインフラが発達しても象徴界(※ラカンの用語。言葉を通し知覚される世界を指す)は無くならず、言葉を介し幻想を見る人間の基本的な構造は変わらない。

―現実らしさへの感性を支えるものとは。
 象徴界とは映画『マトリックス』の主人公ネオが覚醒することで見出す、仮想世界を構成するコード・システムのようなもの。このシステムの存在を認め、それをどのように活用するかという段階になってはじめて、現実らしさへの感性、メディア・リテラシーの可能性へと繋がっていくだろう。

   *  *  *

 今回は幻想としての現実・他者の姿が見えてきた。全3回に渡り、言葉と関係性の根源に迫っていく。

(坂本玄樹)

斎藤環
1961年生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業。医学博士。現在、爽風会佐々木病院精神科診療部長。青少年健康センターで「実践的ひきこもり講座」ならびに「ひきこもり家族会」を主宰。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。主著に「文脈病」(1998, 青土社)、「社会的ひきこもり」(1998, PHP新書)、「生き延びるためのラカン」(2006, バジリコ)、「ひきこもりはなぜ『治る』のか?」(2007, 中央法規出版)、「メディアは存在しない」(2007, NTT出版)、「思春期ポストモダン」(2007, 幻冬舎新書),「アーティストは境界線上で踊る」(2008, みすず書房)など。